世界の路地、それぞれの日々
 ブラジル、どうしようもない日々
                 ヨネブラ・ジルオ記
 Take1
 ハード・ネイティブ長距離バス旅行

 ブラジル、ブラジル……。

 僕はブラジルが好きだ。そして、今度、あの国に行ったら、二度と帰って来れない気がする。「そこに定住してしまうんじゃないだろうか」という安らぎのある危惧ではない。

 「よく、生きて帰って来れたな」と、つくづく思うことがあるからだ。

 これから語ることは、ブラジル1年滞在、最後の二週間に渡って行ったハード・ネイティブ長距離バス旅行のことだ。まずは、この旅行から『ブラジル、どうしようもない日々』を振り返ってみよう。

 数年前(2004年2月末)、当時働いていた新聞社の長期休暇を貰い、僕はブラジル北部のアマゾン地帯を目指して、一人サンパウロを発った。

 季節は真夏。乗り込んだのは、ブラジル北部(ブラジルでも貧しい地域)からサンパウロに出稼ぎに来た人が、出稼ぎを終え故郷に帰るために使うバス。

 記憶が曖昧だけど、確か普通のアマゾン行きバスに乗ると450レアル(当時、1レアル30円)ぐらいかかるところ、このバスは120レアルぐらいだった。

 三泊四日、いや四泊五日だったか、僕はそんなバスに身を委ねた。「日本人でこの種のバスに乗ったのはお前が初だろう」と会社の先輩が言っていた。そもそも、このバスは麻薬取引のメッカになっているサンパウロの黒人地区から出発するから、普通の人はその存在さえ知らない。    
 
 エアコンもなければ、備え付けのトイレもない。当然シートは2人がけ用でしかも背もたれは全く曲がらない。バスは満員御礼。それに、普通の長距離バスが備えているような、バスの脇腹にある荷物用スペースもないから、バスの中は乗客の荷物で膨れ上がっていた。

 それが彼らの家財道具全てだったりするから、哀愁が必然と伴う。そして、複数の赤ちゃんのやまない鳴き声がその空間に重なっていた。

 そんなバスに乗り込んだ訳だから、多少の危険は覚悟していた。でも、実際はその逆だった。

 彼らの多くは敬虔なクリスチャンで、夜になると神父みたいな人がバスの先頭に立ち、みんなで聖書を読み、みんなで聖歌を歌っていた。

 僕はブラジルで長距離バスに乗ることがよくあった。今でこそブラジルはBricsと呼ばれ、あまり貧しいイメージは持たれていないけど、僕がいたブラジルは、もろ多重債務国。90年代初頭のハイパーインフレの余韻が未だ残っていて、政府やマスコミは物価の上昇に過敏になりすぎて、まともな経済政策も打ち出せない状況だった。

 そういうわけで、ブラジルにはどうしても貧困が、先進国のイメージにしろ、現実にしろ、ちらついていた。

 当時は1レアル約30円、現在は約50円。当時の法定最低賃金は250レアル、現在は510レアル。単純に日本円に換算すると、7500円が25500円へと変わった形だ。

 だけど、僕が取材なんかで使うバスは、日本の格安長距離深夜バスなんかよりずっと設備がよくて、サービスエリアもけっこうしっかりしていた。ただ、どうやら、ブラジルではバスのランクによって、使えるサービスエリアも違うようだ。

 ブラジルは階級社会だ。そこには、階級による社会的な取り扱いにはっきりとした違いがあって、例えば刑務所でも大卒は独房に入れるけれど、そうでなければ集団部屋に入れられて、殺されたりすることも珍しくない。

 そういう訳だろう、僕の乗ったバスが停車するサービスエリアに良いバスが止まっていたことは一度もなく、サービスエリア自体も粗末だった。それに、僕の乗っていたバスの乗客は、そんなサービスエリアでも、ほとんど誰も何も買ってなかった。

  一方僕は、忍びないとは思いながらも、サービスエリアに止まるたびに、一人こっそり有料のシャワー(1レアルか0.5レアルぐらい)を浴びたり、バスで隣の席に座っていた男とビールを飲んだりしていた。

 その時、他の乗客の子どもたちは、長い棒で木の実を採って食べていたんだよな。子どもたちよ、ほんとごめんなさい…

 【筆者紹介】 ヨネブラ・ジルオ

 年齢不詳。大学中退直後、ブラジル、サンパウロにある日刊邦字新聞社で2003年4月から記者を経験。会社の社員寮がスラム街的な場所にあったためか、どうしようもない1年を過ごした(らしい)。その後、紆余曲折を経て、現在はフランス、パリのアンダーグラウンド・シーンで音楽活動をしている。本連載『ブラジル、どうしようもない日々』は、パリで暮らすジルオがブラジル生活を回想して書いた実話。



2011.1.24 文筆劇場・トップ