(1073)

  基本は身体にあり

   出版の世界に関わっていると、ややもすると身体感覚が衰えてきます。  そして、観念が肥大化してきます。

 だからこそ僕は、忙しくとも、ヨガや拳法の稽古を欠かさずにいます。  我ながらこれは、なかなか立派な習慣だと思います。

 そもそも言葉というのは、人間の脳が作り出した産物です。  リアルな世界と言葉の世界は、一対一で対応しているように見えて、現実には、かなりのズレがあります。

   例えば、現実世界には、「平和」とか「正義」「自由」といったモノは物理的に存在しません。 これらは、言葉の世界に属する観念です。

 だから、「"平和"を見せてください」と言われても、誰もできないでしょう。

 確かに、のどかな公園でハトが鳴いていれば、「平和」を連想するかもしれません。

 しかしそれは、あくまで「平和が象徴する具体物」であって、「平和そのもの」ではありません。

 同様に、「真実」も「愛」も物理的には存在しません。  それは、言葉であり、純粋な現実とは、また別の世界のことなのです。

 だから例えば、「愛って何?」と問えば、実は「美しい言葉」なのです!  本質的には、一緒にいて気持ちよければ、それをなんと呼ぼうと別に構わないのです。

 それを「愛がある」とか「愛がない」とかいった言葉遊びにこだわるから、話がややこしくなるのです。愛の定義もハッキリしないまま、あるなしを論じたところで、出口はありません。

 (これは、身体モードで生きている人にとっては、自明のことですが、頭脳モードで生きている人にとっては、とんでもない暴言でしょう。)

 というわけで、言葉の世界は、美しく、また残酷ですが、現実とは常に温度差があります。

 頭のいい人が陥りやすい罠は、現実より言葉が先行すると錯覚することです。  キリスト教では、今でもこれが根本教義です。

 いや、すでに僕のこういう物言いからして、すでに観念的になっています。

 特に、出版社の仕事や国会図書館での情報収集を終えた後は、相当、脳が言語モードになっています。浮ついた興奮状態を、徐々に冷ます必要があります。

 僕にとって確かなことは、身体が存在しているということです。  だからこそ、首から上を酷使したときは、じっくり時間をかけて身体を動かすことで、身体モードに移行させます。      

山田宏哉記

追記。 反対に、身体モードのみで生きると、世界が殺伐としてくるので、注意が必要です。要はバランスです。

2006.12.7

記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ