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  「子供の境地」を取り戻す

     私立小学校受験の合否は、親の社交性や財力によって、合否が決まります。  受験せずとも、早期教育の重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはありません。

   「鉄は熱いうちに打て」「三つ子の魂、百まで」と言います。  問題は、この人生において決定的な重要な、乳幼児期の教育において、本人の努力の介在する余地がほとんどないことです。

 第一、乳幼児期は、「自分」という意識が存在しているかどうかとか、その境界線がどこまでなのかわかっているかどうかも、怪しいのです。直立二足歩行や言語を覚えるために、「自主的な努力」をした記憶がある人は、ほとんどいないはずです。

 僕の場合、自分という意識や記憶が鮮明になるのは、どう思い出しても小学校入学以降です。

 それ以前のことも、断片的な映像としては残っていますが、「必死に努力した」とか「将来への不安を感じた」とか「葛藤の果てに決断を下した」ようなことはありません。単純に、友達と遊んで、『ドラえもん』を観て喜んでいただけです。  

 が、今思うと、これこそあえて大人が目指すべき理想的な境地ではないかと思うのです。

 普通の大人は、何も考えずに無邪気に遊んでいる人間より、「自主的な努力」とか「葛藤の果ての決断」をする人間を高く評価します。

   しかしね、どうもそれは違うのではないかと思います。

 「自主的な努力」とか「葛藤の果ての決断」というのは、前頭葉主導の作為的なものです。

 自然体ではない分、「現状分析」などに熱中して、堂々巡りでちっとも前に進みません。当然、成長や上達も遅れます。

   反面、子供は、何も考えずに走り出したりします。  とにかく好きなことは行動に移します。

 だから、何事かに取り組んだときに、成長・上達するスピードが非常に早い。  ただ、気持ちいいからやっているだけで、努力しているという実感は、ほとんどありません。  にもかかわらず、並の大人では全く太刀打ちできません。

   誰もが成長のためによいと信じて疑わない、「自分に鞭打つ努力」とか「桁外れの克己心」とか「客観的な自己分析」などが、かえって上達のスピードが落としているかもしれないのです。

 モーツァルトやアインシュタインなど、「天才」に子供っぽい人が多いのは、たぶん偶然ではありません。    

山田宏哉記

追記。 頑張るな、楽しむんだ。

2006.12.18

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