ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1837)

 現役早大生、大学を語る

   ふと思い出したのですが、僕は現役の早大生です。学生証も持っています。運転免許証を持っていないので、身分証明でよく学生証を使います。

 社会人になってからも、よく大学に来ています。とくに、中央図書館をよく利用しています。新聞、一般雑誌やビジネス雑誌がよく揃っているので、重宝しています。

 大学として日経テレコンなどのサービスと契約しているので、気になる雑誌記事を検索して利用することができます。自分の勤めている会社名や「新入社員」といったキーワードで情報をチェックしています。

 大学図書館にも、古臭い部分も残っています。例えば、電源コンセントの使用禁止など、マクドナルド以下の情報環境です。仕方ないので、バッテリーを使ってこの原稿を書いています。

 さて、利用者という視点から見た場合、大学の存在価値は、図書館のようなインフラ部分と人的ネットワークにこそあります。逆に言うと、集合形式の講義にはほとんど存在価値がありません。

 単に大学の講義を受けたいならば、放送大学のコンテンツで質的にも十分です。10月から僕も聴き始めました。ラジオサーバーとシリコン・オーディオを使えば、時間と場所の制約がなくなるので、歩きながらでも聴くことができます。

 いまどき、先生が教室で黒板に書くことをノートに筆写するのは、悪い冗談としか思えません。この講義スタイルは、書物が貴重だった時代の遺物です。

 さらに言うと、独学の王道たる「読書」ですらも学習法として、やや時代遅れになりつつあります。

 もちろん、本を読めば、有益な知識や情報を得ることができますが、それでは「間に合わない」時代が到来しつつあります。「物知り」であることを、頭の良さ(≒知能指数)と勘違いする人は、まさか文筆劇場の読者の中にはいないでしょう。

 少なくとも読書は、例えば、高品質のコンテンツを速聴しながら、関連情報やわからないことを、同時にウェブで検索するというスタイルには適いません。

 「一生懸命、本を読んで勉強しています」という人が、どんどん教養面で差をつけられるという恐ろしく過酷な学習(能力)競争の時代が到来しているのです。このことに気付くべきでしょう。

 大学という場所は、知識の切り売りをするような無意味な授業がある反面、インフラ面ではとても充実しているので、社会人になってからも徹底活用しない手はないでしょう。

 追記. 技術面で立ち遅れると、信長の鉄砲隊の前に大敗した武田の騎馬隊と同じ轍を踏むことになるでしょう。  

山田宏哉記

 2008.10.2
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