ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1839)

 映像という学習教材

   迂闊だったと思うことがあります。TV番組をバカにするあまり、学習教材としての映像の価値を見落としてきたことです。

 教養人ならこう思うかもしれません。「私は、くだらないTV番組など見ず、一生懸命、読書をしてきた。愚民どもよ、お前たちはもはや私の敵ではない」と。

 どうもそうとは言い切れません。哲学書を読むより、バラエティ番組を見ていた方が、仕事をする上で役に立つかもしれません。

 本を読む人間より、TV番組を見ている人の方がコミュニケーション能力が高いなどということは、インテリには認めがたい事実でしょう。しかし、そうとしか思えない出来事が、次々と僕の周りで起こっています。

 これは、僕が会社員として、飛びぬけて優秀なわけではないということとも繋がっています。

 読者の方は、僕が超人的な能力を駆使して、会社で大活躍していると思われるかもしれませんが、そんなことはありません。ミスは連発だし、エクセルの関数計算とかでつまずいています。

 僕より読書量や多かったり、多方面にわたる(言語化できる)知識がある人は滅多にいませんが、僕より仕事ができる人は山ほどいます。このことからも、(言語化できる)知識・教養と業務遂行能力の間には、たいした相関関係がないことがわかります。

 TV番組の価値と、戦略的な学習教材としての映像は、分けて考えるべきです。インテリが映像に背を向けていられる時代は終わりました。例えば、若い人であろうと、田中角栄の顔や声を知らないのは、いまや無知に属する事柄です。

 ひとり高みに達した読書家を気取っていると、知らぬ間にホームレスに転落しているかもしれません。僕自身、もっと戦略的に映像を見る必要性を感じています。    

 追記.今日は夜の9時まで残業でしたが、家が近いとゆとりがありますね。  

山田宏哉記

 2008.10.5
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