ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1846)

 中身は入れ物よりも重要か?

   リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で「我々は遺伝子の乗り物に過ぎない」という世界観を提示したとき、読書人・教養人のあいだに衝撃が走りました。

 すなわち、生命史の主役は遺伝子であって、個々の人間は、遺伝子の伝達屋としてか存在価値はないというわけです。この考え方は、今では割と広く社会に受け入れられています。

 従って、「人はなんのために生きるのか」という問いに正確に答えるなら、「遺伝子を伝達するため」です。味気ないですが、間違ってはいないと思います。

 さて、遺伝子の乗り物である私たちですが、「ならば、中身は入れ物よりも重要か?」ということは、改めて問う価値があります。

 日米戦争のとき、旧日本軍はパイロットの生命よりも、乗り物である戦闘機を大切にしました。「中身よりも入れ物」派です。対して、アメリカ軍は、戦闘機よりもパイロットを大切にしました。

 零戦戦闘機は、エンジン馬力などを考えると、機体を軽くするため、「防御力」を犠牲にせざるを得ませんでした。それでも、「一定の戦果を挙げた」ことは特筆すべきです。

 また、コンピュータで言えば、CPUやHDDなどは入れ物(ハードウェア)にあたり、OSや格納されているデータは中身(ソフトウェア)にあたるでしょう。

 この分野では、入れ物の基本性能の方が、中身がどうあるかよりも重要であることが少なくありません。

 本題に入りましょう。さて、ウェブで表現活動をする際、入れ物(ウェブサイト、ブログなど)と、中身(コンテンツ)のどちらが大切でしょうか。

 クリエーターなら、「猊集修靴燭き瓩箸いΕ僖奪轡腑鵝幣霰)こそが大切だ」と言うでしょう。間違ってはいないと思います。

 その上で言わせてもらうと、ウェブ表現においては、中身に劣らず、入れ物も相当にモノを言います。「本気でやるなら、ブログではなく、自分のウェブサイトを持つべきである」と僕は強く主張します。

 もちろん、ブログでも、文章、写真、音声、映像を発信することができます。レイアウトにもそれなりにこだわれる。「中身こそ大切」という立場であれば、これで何の問題もないかもしれません。

 ここからは偏見炸裂ですが、しかし、ブロガーやミクシィのユーザーにはどうしようもなく猴戮蕕気譴討い覺境瓩あります。

 コマーシャリズムに乗せられながらも、一端(いっぱし)の趣味の話とか書いてみて、「私って、デジタル社会の勝ち組?」みたいな奇妙な優越感に浸っているよう見えます。うわっ、気持ち悪い!

 ブロガーが非自立的に見えるのは、おそらく狹合的なファイル(=入れ物)管理瓩鉢爛宗璽好魁璽匹硫湛・編集爐箸いΕΕД屬砲ける根本的な権利を手放しているからです。

 ひとつのブログで、ごく自然に、ラジオステーションを開設したり、経済統計分析や修士論文の全文を掲載できるかというと、機能やレイアウト上、かなり難しいのではないでしょうか(文筆劇場では強行しました!)。すなわち、入れ物が中身を規定するのです。

 ウェブサイトをフレーム分割するか。あるコンテンツをhtmlのテキストで公開するか。統計やグラフを折り込んだスプレッドシート(.xls)やPDFの形で公開するか。音声(mp3やwma)や写真(.jpeg)で公開するか。あるいは公開せずにオンライン・ストレージ(記憶装置)として利用するか。

 これらの選択は、あくまで狷れ物の議論瓩任后たかだ狷れ物瓠△気譴畢狷れ物瓩任后

 苦労して自分のウェブサイトを作り上げたとき、ブログでは、ウェブ表現の入れ物としては欠陥が多すぎると気付くのではないかと思います。

 追記. 以上、せっかく覚えたHTML技術に固執する偏屈者のタワゴトである可能性は、排除できません。

山田宏哉記

 2008.10.13
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