ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1872)

 ギリギリあきらめがつく失敗たち

 「文化系トークラジオLife」の「僕たちの失敗学」の回を聴いていて、色々と思うところがありました。

 リスナーからの投稿では、比較的、「就職で失敗した(かもしれない)」という不安や後悔が割と多く寄せられていたように思います。痛いところを突かれたので、僕が過敏に反応しただけかもしれません。

 よく「失敗を恐れるな」とか「失敗を糧にする」というけれども、やはり「場合によりけり」だと僕は思います。

 日常レベルの小さい失敗は、インフルエンザの予防注射のように、どんどん経験した方がいいと思います。ただし、不可逆的な重たい失敗は、なるべく避けた方がいいと思います。

 例えば、強盗殺人や無差別テロを実行して、刑務所にぶちこまれてから、「僕は失敗を糧にして成長した。だから、僕の人生に失敗はなかった!」と言い張るのは、さすがに無理があります。

 犯罪とは言わないまでも、受験や就職、結婚などにおいても、なるべく失敗しない方がいいと思います。むしろ「ギリギリ諦めがつく」というこのレベルの失敗こそが、ヒ素のように徐々に人生を蝕んでいくような気すらします。

 例えば、一流大学を大学を目指して受験勉強に励んで、滑り止めの二流大学だけに合格した場合、内心、学歴コンプレックスがついて回る可能性が大きいわけです。

 いっそのこと、「バカ大学卒の掃除屋でーす」と開き直れればいいのですが、プライドが邪魔をしてそれができない。  

 二流大学であるが故に、「狷東駒専甍焚爾梁膤悗力中と一緒にするな」というエリート意識が首をもたげながらも、エスタブリッシュメント(体制側の支配層)のネットワークには入ることができない。

 そのアンビバレントな感情が、人生に染みをつけます。ただ、少し自尊心が傷つき「なんとなく不愉快」なだけで、別に致命傷ではありません。

 その他、「高給取りだけど、好きなことを仕事にできなかった」とか「第3志望の企業に内定した」とか「IT長者としてチヤホヤされたけど、結局、警察に逮捕された」とか、純粋に失敗と呼ぶには微妙な場合が山ほどあります

 人生にはこの手の「ギリギリ諦めがつく」という程度の失敗に満ち溢れています。そしておそらく本人には、それが敗者復活戦に挑むべき失敗だったとは認識できない。

 正直、僕も自分の過去の失敗、特にギリギリ諦めがつく失敗をどう処理すればいいのかわからない。肯定するのか、否定するのか。足掻くのか、妥協するのか。無視するのか、あるいは忘れるか。

 宗教団体の教祖じゃあるまいし、そんなの知ったことかよ。とりあえず、喀血しろ、喀血。

 ただ案外、ひとりでチビチビとお酒でも飲んで、矛盾と不条理に満ちた人生の哀愁にひたるというのが正解かもしれませんな。  

 追記. 本日、会社の業務時間中にアメリカ大統領選の行方が気になって仕方ありませんでした。このネタには改めて触れます。 

山田宏哉記

 2008.11.5
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