ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1878)

 ためらいの生命論

 今朝、NHK文化講演会で放送された鈴木中人氏「いのちの授業 ― いのちのバトンタッチ」を聴きながら出勤しました。娘さんを小児ガンで亡くされた鈴木氏がその経験に触れつつ、「生きるということ、死ぬということ」について語られています。

 仕事前に聴くには重いテーマで、「うーん」と唸ってしまいました。

 (偏見かもしれませんが)思うに「生命の大切さ」とか「生命を大切にしよう」というと、どこかウソ臭い響きがします。これは、自分が死ぬことを前提としていない人間の言葉です。

 また、人間は娯楽のために他の動物を殺す生き物です。さらには、娯楽のために他人を殺す生き物です。

 映画を観れば一目瞭然。人が死なない映画は盛り上がりに欠けます。マシンガンを持った主人公が「生命は大切だぁ!」と叫びながら、敵を次々と射殺していたら、誰だって違和感を感じるでしょう。でも、それが僕たちです。

 あるいは、地球や宇宙の悠久の営みの中では、人間の生命など一瞬の閃光に過ぎません。客観的に言えば、人間の生命が重いなどということはありえない。

 それでも、僕たちにひとりひとりにとっては、約100年という与えられた時間こそが、すべてです。

 猝燭僚鼎澂瓩箸いΔ里蓮△い困貅分や愛する人が死ぬという圧倒的な現実を直視することでしか、感じられないと僕は思います。天国や地獄といった話も、おそらくは気休めのフィクションで、永遠の無に帰すのが僕たちです。

 生まれてきたという奇跡と、死が避けられないという絶望を前にしたら、本来、人は言葉を失うはずです。生命というのは、まさに戦慄すべき現実です。

 あるいは決して抜け出すことのできない牢獄です。骨董品を評するのと同じように「生命は貴重だ」とか「生命を粗末にするな」と言うのは、何かが違うと思います。

 「生命は大切だ」とノド元まで出かかったとき、思わず感じるためらい。その違和感は決して間違ってはいないと思います。

   追記.最近、メメント・モリの過剰かもしれません。 

山田宏哉記

 2008.11.9
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