ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1923)

 矮小化していく自分との闘い

 人間、気づかぬうちにどんどん視野が狭くなっていくものです。

 学生が社会人になったとき、会社の内部のことにしか興味がない人の多さに、驚くと思います。社会がどうあるべきかといったことはもちろん、同業他社の動向すら気にしない人がいます。

 ましてや、日本国外のことなど、意識に上ることすらないでしょう。

 それを批判するつもりはありません。普通のサラリーマンにとって、日々の生活を営むためには、上司の指示と命令をどれだけ達成できるかということだけが問題なのであって、会社全体の業績を把握することも、政治的な見識を持つことも、必要ありません。

 勉強などするより、飲み会の席で披露する裸踊りの練習でもしていた方が、よほど有益というものです。

 そんな皮肉を言う僕自身、恐ろしく視野が狭くなっていました。水村美苗『日本語が亡びるとき』にそのことを痛感させられました。

 大学時代、海外の大学院に進学したいと考えていました。異国の地で、1から自分の力で生き抜いてみたいと思っていました。果たして自分がどれだけの可能性を持った存在なのか、それを試したかった。

 そんな気概が今の僕にあるだろうか。世界を舞台に戦う気持ちが残っているだろうか。

 少なくとも今、のうのうと会社員をやって禄をはんでいる自分がいます。かつての尖った感性はどこかに消えて、世界で今、何が起きているのかも知らない自分自身に充足を覚えています。堕落だ。

 もっとも、ほとんどの人は、「日本語が亡びる」と聞いてもピンとこないでしょう。それでいいのです。差別的な言い方になりますが、インテリと庶民では、住む世界も大切にしているものも違うのです。

 その上で言うなら、日本という辺境の国で、日本語いう特殊な言語を使うことによってしか、生きることも自分を表現することもができないくせに、その基盤に亀裂が入っていることに無自覚であるとは、教養人としてはあるまじき怠慢です。  

 追記. あぁ、もっと強くなりたい。

山田宏哉記

 2008.12.8
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