ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1931)

 『日本語が亡びるとき』の新展開

 水村美苗(著)『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)を読み終えました。

 ここから、新たなる展開です。本日、研究会で恩師と大学院生に会う予定だったので、重要なページを人数分、コピーしてアンダーラインを引いて渡すことにしました。

 恩師には「何が何でも、読んでいただきたい」ということで、僕が読み終えた本をお貸しすることになりました。"憂国の念瓩剖遒蕕譴討里海箸任后

 他人が書いた書物に対して、ここまで情熱的になれるのは、1年に1度あるかないかのことです。  

 さて、僕を除いた5人のうち、2人がこの本の存在を知っていて、1人が既に読み終えていました。さすが、文科系の大学院生(?)たちです。

 文科系の学生が、新刊よりも、時間の篩にかけられて残ってきた書物を重視して読むというのは、基本的には正しい態度だと僕は思います。

 それでも、たとえ同時代に出版された新刊であっても、重要な著作に対してはピンと反応する嗅覚を持つということも、また同じくらいに大切なことです。

 人間がモノを考えるとき、基本的には言語で思考します。日本人がモノを考える際には、日本語といういわばソフトウェアが起動します。

 だからこそ言いたい。もしあなたが、物事を深く考える習慣のある人間だという自負があるなら、無条件でこの『日本語が亡びるとき』を読むべきです。

 著者である水村さんの考え、あるいは紹介者としての僕の考えに、賛成するか、反対するか、ということはこの際、問題ではありません。

 しかし本書が提起する構造的な問題、すなわち「猊疂弩譴箸靴討留儻讚瓩鯀阿法英語を母語としない人々は圧倒的に不利な立場におかれ、究極の選択(母語を捨てて英語に乗り換えるか、否か)を迫られている」という主題の重要性を否定できる人はいないと思います。

 理科系の世界はもちろん、もはや論文は英語で書かなければ相手にされません。

 これまで日本語でしか論文を書けない学者は、猖殘業者瓩箸靴騰狎祥里旅盖藥彖朖瓩鯑本の未開現地人たちに紹介してきました。そういう牧歌的な大学のビジネスモデルが成り立っていましたが、こんなことは明らかに持続不可能です。

 既に日本のビジネス界でも、TOEICスコアが各人の能力評価や昇進の条件と深く結びついています。

 あるいは、ウェブの世界では、英語と日本語の情報の量と質の格差は、目を覆うばかりです。僕の文筆劇場が、日本語の個人ウェブサイトとしてはマシな部類に入るということ自体が、日本語にとって危機的な状況です。

   追記. もはや、「日本語を守ろう」とか「日本語は素晴らしい」といった綺麗事のお題目だけでは、日本語を護り切れない。この意味がわかるか。わからなくても、身体でわかれ。

山田宏哉記

 2008.12.13
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