ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (1954)

 極限状況ではどこまで許されるのか?

 ある映画のネタとかぶりますが、ひとつの思考実験をしたいと思います。

 爆弾が仕掛けられた飛行機が2機、飛んでいる。一方の飛行機には善良な市民と、もう一方には囚人や犯罪者たちが乗っている。

 そして、善良な市民は、囚人たちの飛行機の起爆装置を持っていて、囚人たちは善良な市民たちの飛行機の起爆装置を持っている。

 もし、どちらかが相手の飛行機を爆破すれば、その飛行機の乗客は助かる。もし一定時間を過ぎても、どちらも起爆装置のスイッチを押さなければ、どちらの飛行機も爆発する。

 そのとき、どのような結末に導くのが、正義、倫理的、人間の本能に適うと言えるでしょうか? 

 このとき狄祐屬梁左鍬爐鮗蕕辰董△匹舛蕕糧行機も爆発するのを座して待つのが、人間として正しい姿なのでしょうか。放っておけば全員死ぬ状況下で、積極的に相手を殺すことによって生き延びることできるなら、それは許されることではないでしょうか。

 では、善良な市民たちが、囚人たちの飛行機を爆破して生き残るのは、倫理的に許されるのでしょうか。

 あるいは、ありそうな話ですが、囚人たちが善良な市民たちの飛行機を爆破して、生き残るのは、「仕方がない」こととは言えないでしょうか。犯罪者であろうと、狎掬防衛爐慮⇒はあります。

 確かに、善良な市民の方が、犯罪者よりも、狎犬るに値する狄諭垢里茲Δ砲盪廚┐泙后

 僕の立場は、善良な市民であれ、犯罪者であれ、どちらかが相手の飛行機を爆破して生き残ることは、倫理的に許される、というものです。「善良な市民が犯罪者を殺すのは許されるけれども、犯罪者が善良な市民を殺すのは許されない」という立場はとりません。

 極限状況における生存競争では、善良な市民であれ、犯罪者であれ、チャンスは平等です。

 例えば、善良な市民たちは、起爆装置のスイッチを押すのを躊躇した。その隙に冷血漢の犯罪者が善良な市民たちが乗る飛行機を爆破した。仮にそうなったとしても、それもまた、僕たちが受け入れるべき不条理な現実だと思います。

 ちなみに、この状況下、もし僕が善良な市民の側の飛行機に乗っていたら、躊躇わずに犯罪者たちの飛行機を爆破するでしょう。逆に、犯罪者の側の飛行機に乗っていたら、躊躇しつつもスイッチは押さないでしょう。

 見損ないましたか? それとも見直しましたか?

 追記. 以上、年末年始休暇に冷水を浴びせるハードな問いかけでした。

山田宏哉記

 2008.12.30
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