ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2316)

 グローバル経済の中の学歴競争

 いよいよ本格的な学歴社会が到来しようとしています。世界水準の考え方では、学歴はその人を査定する上での重要な要素のひとつです。

 インド人や中国人の若者たちが、どれだけ一流大学卒の称号を評価しているかを見れば、「学歴なんか関係ない」などという寝言が出てくるはずがありません。

 これまでの日本は、イメージとは逆に"学歴社会"ではありませんでした。学歴は名誉や虚栄心を満たす対象としてのみ、価値がありました。

 確かに研究者の世界では学歴が決定的に大切でしたが、実社会に出ればむしろ「学歴なんか、関係ない」という考え方が主流でした。

 だから学歴が低くても、工場で勤勉に働いて、酒の席で盛り上がっていれば、人並みの生活を手にすることができました。

 中卒で丁稚奉公を始めた泥臭い中小企業の社長が、「世の中、学歴なんて関係ありまへんで」と言えば、確かに説得力があります。

 もちろん僕は、「学歴さえあれば生きている」と言っているわけではありません。そうではなく、世界水準の競争では、日本の三流大学卒では、もうそれだけで著しく値踏みされるということです。

 僕の観察でも、学歴と知的能力には相関関係があります。

 そして、学歴は信用に直結します。既に現在の日本社会でも、コンサルタントや弁護士のような知的人気商売(学者や評論家を含む)は、高学歴者でないとそれだけでハンディを抱えるのは公然の事実です。

 失礼ながら、何が悲しくて日東駒専の卒業生に経営手法や社会問題の相談をしなければならないのか、という話です。

 多くの人は、本音ではそう思っているにもかかわらず、日本社会の文脈の中では、あまりこういうことは言ってはいけないことになっています。

 しかし、グローバル競争の中では、こういう「日本的な慎み深さ」が吹き飛んで、学歴に関しても、オープンな査定対象になることでしょう。

 世界水準では、「君は、スタンフォード大のマスターか。なら、地頭はよさそうだな」とか「インド工科大学の成績上位10%以内なら、初年度の年俸1000万円でどうだろうか」といった査定合戦が当たり前です。

 ところが日本では未だに、「一流大学卒は仕事では使えない」などという、全く世界から取り残された"常識"がはびこっています。嫉妬と劣等感にまみれて、思考が曇っているのでしょう。

 三流大学卒は、それだけで知的能力を疑われ、敗者のレッテルを貼られるというシビアな競争を前に、一体、何を寝ぼけたことを言っているのか。

 ほとんどの日本の大学の入学式では、こう伝えるのが本当の思いやりでしょう。

 「君たちは、受験戦争で決定的に敗北した。今日から学歴コンプレックスをバネに死ぬ気で努力しない限り、貧民として社会の底辺を這いずり回ることになるだろう」と。

   追記. 休日ということもあり、ついつい"大きな話"をしてしまいました。

山田宏哉記
 
 2009.10.12
 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ