ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2338)

 【知のOS】記述と省略

 意外と見逃されていることですが、何を記述して、何を省略するかということは、認識にとって本質的なことです。

 「今朝、太郎は学校に行った」という記述があったとします。これはこれで理解できます。

 より詳しく記述すると、「今朝、太郎は8時に家を出て、3丁目の交差点を右折して、8時15分に学校に着いた」などとなります。

 さらに、詳しく記述すると、「今朝、太郎は7時35分15秒に目覚め、ベッドから起き、顔を洗い、朝食を食べ、歯磨きをして…」などとなるでしょう。学校に到着するまで、相当量の言葉が必要になります。

 さらにさらに、詳細に描写すれば「今朝、太郎は7時35分03秒頃から徐々に意識が輪郭を帯び始め、『起きなくては』と意識し、頚椎を持ち上げようとしたがなかなか持ち上がらず…」と朝、起き上がるまでの数瞬に、言葉を詰め込むことができます。

 しかしあえて記述しなくても、僕たちは「今朝、太郎は学校に行った」という文章から、まさか裸で家を飛び出したとは想像しません。

 あえて記述しなくても、太郎が服を着て、玄関で靴を履いて、二本足で直立歩行をしたであろうことは、暗黙の了解事項です。しかし、文脈から常識的に判断するならそうでも、厳密にテキストを字義的に解釈するなら、それは何とも言えません。

 また、「今朝、太郎は新品の靴を履いて学校に行った」と書けば、「新品の靴」が前景に浮かび上がりますし、「太郎は、憂鬱な気持ちで学校に行った」と書けば、太郎の感情に焦点が当たります。

 歴史や異文化の書物を読むときも、「当たり前のことは、省略される」ということは覚えておいて損はありません。勉強が通用しない分、「常識的に生きる」ということは、実は難しいことです。

 例えば、江戸時代の身体文化(歩法や立居振る舞い)が現代日本のものとは全然違ったとしても、彼らにとってはそれがあまりに当たり前だったために、記録としてはほとんど残されていません。

 その割に、「ペリーが黒船でやってきた」といった非日常は、記録に残りやすいわけです。

 単純な話、「事実をありのままに記すことはできない」ということです。観察者は、自分が重要だと思ったことを記述(認識)し、重要ではないと判断したことは省略(無視)します。言語表現にとって、これは決定的なことです。

 思うに、言語で表現する者は、この常識と字義上のズレに自覚的であるべきです。

 さらに言うなら、記述と省略のあいだに精通することこそが、表現を鍛える第一歩と言ってもいいのではないでしょうか。

   追記.いやはや、やっぱり文章は週末に書き溜めておくのがいいですね。

山田宏哉記
 
 2009.10.22
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