ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2355)

 生成のプロセスを見つめて

   今、翻訳に際して、日本語を確定させる作業をしています。

 ある英単語を「浸透」と訳すか、「浸蝕」と訳すかで、議論になります。あるいは、代名詞をそのまま「彼」とするか、代名詞が指し示すものを明記するか、くどいから省略するかでも、見解は分かれます。

 計らずも、翻訳が最良の日本語文章修業の場となっています。

 よく文章上達のためには、添削が勧められます。間違ってはいませんが、これはある一定の水準までの話です。

 最高の文章修業は、やはり助詞や語彙のひとつひとつに対して、討議するプロセスの中にこそあります。なぜ、その表現よりも、この表現の方が適切なのか、徹底的に吟味するということが、結局は言語感覚を鍛える近道のように思います。

 「結果よりも過程が大切だ」というと、綺麗事に聞こえるでしょう。しかし、言語表現に関しては、特にこのことが当てはまります。

 確定した言語表現を読むよりも、ある文脈の中で、ある表現が確定するプロセスを見つめる方が、多くの知恵を得られると思います。

 「会話」というのは、言語が生成するプロセスそのものです。情報密度で言えば、確定した文字表現の方が高いけれども、相手と言葉がまだ言葉になり切っていない情報空間を共有することで、見えてくるものが数多くあります。

 だから、読書をするときよりも、他者と対話(≠おしゃべり)をしているときの方が、脳は活性化しています。

 文字とは、言葉の死体なのかもしれません。文字になった時点で、既に表現が死んでいるという感覚は、僕の中にもあります。

 声として発する言葉が持つ温もりのようなものが、文字には先天的に抜けています。文字は、ロゴスや情報伝達の媒体としては素晴らしいけれども、感情への訴求力ではやはり声には敵いません。  

 だからこそ、文章を鍛えようと思ったら、逆説的ながら、口頭で単語のひとつひとつを討議して、表現の生成プロセスを見つめるというのが、一番の近道のように思います。

   追記.翻訳は文章修業に最適の最良でした。

山田宏哉記
 
 2009.11.2
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