ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2378)

 【敗北人生論】震える気持ちで土俵に上がる  

 街にたむろする若者たちを見るにつけ、ふと思うことがあります。果たして彼らは「負け組」なのだろうか、と。

 何も人道的な見地から、彼らの生き方を「オルタナティヴ」と賞賛し、反体制・反貧困的な物言いをしているわけではありません。

 「彼らはそもそも勝負の土俵に上がらなかったのではないか」と疑っているわけです。従って、彼らは"敗者の称号"を手にする資格がない。

 ただただ、社会から疎外されて、他者から高い評価を得ることもなく、欲求不満を募らせて死んでいく。

 そして世界は、あたかも彼などもともと存在しなかったかのように回り続ける。ノーバディ。そして、ノーバリュー。

 意外にも、人は敗者のことを覚えている。敗者は記憶される。おそらくこの1点だけでも、勝負の土俵に上がることの意義は存在します。

 恋心を抱いた異性に告白せずに、そのまま流れてしまったら、それは「敗北」と呼ぶに値しない。

 格闘技の試合を前に、萎縮して出場を辞退すれば、それは「敗北」と呼ぶに値しない。

 震える気持ちを抑えて、勝負の土俵に上がったか。勝者であれ、敗者であれ、共に勝負前、緊張で身がすくむような思いを抱いている。

 だからこそ、勝敗が決した後に、互いの健闘を称え合うことができる。

 「敗者になる」というのは、本気の挑戦が前提になるので、それはそれで敷居が高い。

 また、「一束いくら」の若者たちが、「俺たちは、負け組じゃない」と叫んでいる。

 その通り、たぶん君たちは「敗者」ではない。わかるか。真剣勝負から逃げた以上、「敗者」ですらないのだ。  

   追記. 以上、我ながら戦慄を覚える一文でした。

山田宏哉記
 
 2009.11.20
 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ