ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2384)

 "憎悪が連鎖する世界"への抵抗

 もう10年以上も前、オウム真理教の信者たちが、それぞれの転居先で地域の役所や住民たちの反対運動に合うという出来事がありました。

 「悪魔教団」とか「殺人集団」とプラカードを掲げて、オウムの施設や信者に石を投げつける"善良な市民"たちに対して、言いようのない気持ち悪さを感じました。

 あるいは、北朝鮮が日本人の拉致を認めたとき、日本中が北朝鮮への憎しみで燃え上がりました。その時僕は、朝鮮学校の生徒たちに、日本の"善良な市民"たちからの嫌がらせが殺到したことが、心苦しくてならなかった。

 そうだ、人間はこうやって徒党を組んで、誰かを迫害してきたんだ。KKKによる黒人迫害も、ナチスドイツで起きたユダヤ人虐殺も、中国で起きた人民裁判も、加害者ひとりひとりを見れば、おそらく"善良な市民"なのです。

 これは、今だから言えることです。当時は、こんな発言は許されなかった。でも本当は、あの騒ぎの渦中でこそ言うべきことだったと思います。

 2003年、アメリカがイラクを攻撃するとき、僕は賛成も反対もしたくなかった。戦争に賛成する側も、反対する側も憎悪一色に燃えていたからです。

 今、ようやく気付きました。"憎悪を共有する多数派"には与しない。これが僕の中のずっと変わってはいない良心です。

 多数派が憎悪を共有するとき、ウェブであれば"炎上"という現象が起きるし、社会であれば少数派が弾圧され、さらに過激化すれば虐殺や戦争という事態に発展します。

 クラスの誰かが失敗をした。"みんな"はここぞとばかりに、その一人を正義の言葉で責め立てて糾弾している。

 何としてでも僕は、その一人を庇いたい。理由は問わない。善悪すら関係がない。多数派の憎しみに荷担して、誰かを生贄にするのは、もうやめにしたいと思う。

 それが、憎悪が連鎖するこの世界への精一杯の抵抗ではないのか。森達也さんの著作と作品、あるいは村上春樹さんのインタビューを読んでいて、そんなことを思い出した。

   追記. 自暴自棄になって自爆テロを起こす若者。犯人の両親に対して、「罪を償え」(つまりは「自殺しろ」ということだ)と迫る善良な市民たち。そのどちらも僕らの中にいる。

山田宏哉記
 
 2009.11.22
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