ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2385)

 【暗黒心理学】憎しみは生きる目的になり得るか

 自殺しようとしている男を救うのは、おそらく"温かい言葉"ではありません。

 彼よりも悲惨な境遇の人を見せ付けることです。そして、彼に"憎しみ"を植え付け、焚きつけることです。

 弱者にとっては、誰かを憎むことが、"生きる希望"になります。誰かに殺意を抱いてさえいれば、当面は、自分自身の境遇から眼を反らすことができます。

 学校教育の世界では、社会的関心の高い生徒は褒められる傾向にあります。ただし、僕の観察では、社会的関心の強い若者は、えてして現実逃避のために社会的な出来事に対して、関心を持っています。

 ニュースでまた、猟奇的な殺人事件が起きた。君は、勉強道具を放り投げてニュースに噛り付いて、「犯人はけしからん。死刑にするべきだ」と憤っている。

 その猟奇的な殺人事件の犯人が捕まった。犯人は在日外国人だった。君はまた、勉強道具を放り投げて、「あの国に戦争を仕掛けるべきだ」と憤っている。

 その猟奇的な殺人事件の犯人は、実は冤罪だった。君はまた、勉強道具を放り投げて、「日本の司法制度は腐り切っている」と憤っている。

 いい加減、目の前の現実から逃げる自分の愚かさに気付いたらどうだろう。

 ハッキリ言おう。時給\1,000でコンビニのアルバイトをしながら、天下国家や社会問題を論じるのは滑稽です。

 分別のある大人ならば、「そうか、この人は自分の将来を直視したくないだな」と簡単に見抜きます。

 自分自身の人生が、もはや悲惨なものでしかありえないと絶望してしまったとき、大抵の人は、狂信に陥るか、憎悪で内面を塗りつぶすことになります。これこそ、"生きる希望"です。

 君は誰を憎いと思う? そして、誰を殺したいと思う? 

 果たして「否、私は自分の人生に希望を抱いている。そして、この世界を愛している。憎しみは生きる目的になり得えない」と言い切れるだろうか。

   追記. もっと突き詰めたい人は、エリック・ホッファーの著作を読みましょう。

山田宏哉記
 
 2009.11.22
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