ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2396)

 【知のOS】メディア・パフォーマンスの核心

 拡声器で必死で街頭演説や社会批判をしている人の大半は、知的障害者だと判断して間違いありません。

 ここで重要なことは、「喋っている内容に関係ない」ということです。

 彼は、メディア・パフォーマンスの何たるかを全く理解していません。

 「街頭で見知らぬ人々に向かって、何か切実に訴える」という行為に出ることそのものが、余裕のなさと知的能力の低さを象徴しています。

 僕自身は、ウェブサイトを運営していて、ある程度、公共性のある批評を掲載しています。しかしその原稿を、駅前の街頭演説で読み上げたら、ただの気違いです。  

 批評者にとって、読者の属性によって、文体と内容を調整するのは常識以前の問題です。

 特に最も重要なことは、その言論が、プッシュ型かプル型かという区分です。

 注文を受けて書いた原稿や、他者から求められて書く(言う)ことは、過激な内容でも問題ありません。これは、プル型の批評だからです。

 逆に、相手から求められたわけではないけど、「とりあえず自分が言いたいこと」を言う場合、物腰を低くして、謙虚に言う必要があります。これはプッシュ型の批評です。

 自前のウェブサイトは、その設計からして「アクセスしたい人がアクセスすればいい」という情報媒体です。つまり、基本的にはプル型の批評の場です。

 そして、僕はウェブでは、基本的には僕の原稿を読みたいという人に向けて、プル型の批評をしています。ついでに言うと、ツイッターもプル型でやっています。

 だから正直、他のウェブサイトに転載されると非常に迷惑をします。

 プッシュ型の批評の場に、プル型の批評を持ち込むと、非常に場違いで礼儀知らずという印象を与えます。

 僕のような人間でも、固定読者以外には、メディア・パフォーマンス上の理由から、プッシュ型の丁寧な批評をします。

 特に日常生活で接するのは、僕の読者ではない人がほとんどです。ですので、あまり難しい語彙や凝ったフレーズは使わないようにしています。

 これは当たり前のことですが、どうもカッコつきの「頭のいい人」にはわかっていない。「真実の批評」みたいなものがあると錯覚している。

 他者から求められてもいないのに、プル型の批評をするのは、空気を読めないただの阿呆です。

 辛口の評論で知られている人も、大抵、辛口なのは「求められた場」においてです。街頭演説で過激なことを言ったりはしないでしょう。

 「お前の意見や考えなんか、聞きたくないよ」という人が、饒舌に自説を展開したら痛いでしょう。講演会の質問タイムなどには、よくこういう人が出没して、みんなが迷惑します。

 ちなみに、この「痛さ」が感覚的にわからないのは、実務家やビジネスパーソンとしては致命的です。

 そして、大まかにいえば、このプル型とプッシュ型の批評を使い分けるということこそが、メディア・パフォーマンスの核心部分です。

 追記.当然、以上のようなことは、あくまで知的能力の高い固定読者に対してだからこそ、書くことです。当然、職場や街頭で話したりはしません。

山田宏哉記
 
 2009.12.5
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