ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2449)

 【実務家の批評】"知識の総量"の重要性

 フィリップ・コトラー(著)『カオティクス』(東洋経済)を読了しました。本筋とは関係ないことで、気になったことがあるので記しておきます。  

 情報技術が発達した現在、一般に「何を知っているか?」ということは、あまり重視されなくなっているかのように言われます。

 つまり、「わからないことがあったら、検索すれば事足りる」わけで、「知識をどう活用するかが重要だ」というわけです。

 これは、錯覚です。むしろ、これまで生きてきた中で蓄えた"知識の総量"が、直接的にものを言うようになってきていると感じます。

 例えば、マーケティングを語る上では、フィリップ・コトラーを外すことはできないでしょう。だから、企業のマーケティング部門で働く人で、成長意欲の高い人ならば、コトラーの著作を読んでいる。

 別にマーケティング部門でなくても、MBAを保有しているビジネスパーソンなら読んでいるでしょう。

 さてここで、「検索すれば事足りる」という無知な輩がいたとする。

 彼は、フィリップ・コトラーの名前を知らない。そこで、ウィキペディアで検索する。するとコトラーが、「現代マーケティングの父」だということがわかる。そして、「わかった」と満足する。

 元来、著作を読み込んだ人の知識水準と、ウィキペディアの関連記事を読んだ人の知識水準が同じのわけがありません。しかし、劣位者からすると、ごく浅い部分で「そうか、わかった」と勝手に納得してしまいます。

 情報技術というのは、インテリジェンス・アンプリファイアです。知識水準に格差がある2人がいた場合、情報技術はその格差を拡大する方向に作用します。

 ですので、情報革命によって「情報弱者が情報強者と同一の情報を手に入れられるようになり、同じ基準で判断できるようになる」というのは、全くの幻想です。

 思うに一般のイメージとは逆に、少しでも相対的に"知識の総量"を増やしておくことが、情報社会を生きる上での絶対条件です。

 知識の総量が少ない人は、「自分は何を知らないか」ということがわかっていない。厳密に言えば、「"知らない知識を検索"することはできない」わけです。

 そしてあるとき、「未知との遭遇」によって決定的な敗北を喫すことになる。

 以前、慶應大学の英語入試で、辞書の持ち込みが可になったことが話題になりました。これをもって、「英単語を覚えなくてもよくなった」というのは、愚論です。

 情報社会を生きる上でも、これと同じことが言えます。

 誰もが「検索で知りたい情報を入手できる」と錯覚している時代だからこそ、むしろ"徹底的に知識の総量を増やす"という逆張りの戦略がものを言うように思います。

 追記. ウェブには(知りたい情報のみを検索することにより)「自分の偏見や固定観念を強化する」というリスクがあることは、忘れるべきではないでしょう。

山田宏哉記
 
 2010.1.24
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