ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2456)

 15歳の目に映る記憶/『海辺のカフカ』

 村上春樹(著)『海辺のカフカ』(新潮文庫)(上)(下)を約8時間かけて読みました。村上春樹の長編小説を読むのは、かれこれ10年ぶりくらいのような気がします。

 だいたいにおいて、書物に関して「無性に読みたくなった」ということは、たぶん「読む必然性があった」ということです。

 浮世のことを忘れて、物語の世界に没入することができました。濃密な体験でした。

 思うに、小説が担っている機能のひとつは、作家自身が意識するしないにかかわらず、"人生のあり方の提示"にあります。

 そして、おそらく少年は優れた小説に"人生の可能性"を感じるのに対して、大人はどちらかと言うと、"人生の限定性"を感じます。

 『海辺のカフカ』の主人公は15歳です。村上自身さんにも15歳の頃があったはずです。そして僕にも、当然ながら15歳の頃がありました。

 "人生の限定性"の問題として、そんなことを痛切に感じました。

 さて、「記憶というのは大切なものなのか」というのは、おそらく、この作品の主要な問いかけのひとつですが、答えの出ない問題です。

 もちろん、実際的な生活を考えるならば、いわゆる記憶力はよい方がいいでしょう。しかし、ここで言いたいのはそういう次元の話ではありません。

 一面で、記憶の蓄積は、人を不自由にするし、人生を限定的なものへと変えていきます。そして、作中にも出てくる台詞ですが、人々は自由を求めるポーズをしたいだけで、本当は自由など求めていないのです。

 そして、いつしか「記憶の中に生きる」になったとき、生命力は失われ、現実世界から弾き出されることになるでしょう。

 このような抽象的な問いかけを、具体的な人と人とが織り成す物語として提示するということは、どう考えても並大抵のことではありません。

 この語り部としての筆致は、「さすが、村上春樹」とでも言うしかないでしょう。

   追記.ちなみに、小説を読むというのは、少なからず人生に挫折したときでした。浪人時代はよく小説を読んだものです。

山田宏哉記
 
 2010.2.22
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