ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2457)

 記憶という名の燃料/『アフターダーク』

 村上春樹(著)『アフターダーク』(講談社文庫)を読みました。

 筋書きを書いてしまうと、"ありふれた夜の日常"になってしまうでしょう。それを、切り口と表現技巧によって、いわば文学作品に仕上げているような作品です。

 この作品に限ったことではありませんが、粗筋で読んでも、ほとんど意味がないでしょう。

 文章表現上、ブリリアントな点を具体的に指摘するなら、"神の視点"というか、"読者の視点"というものを作中に埋め込んだことでしょう。だから一人称が"私たち"となる。

 "視点"が一人称なので、書き出しからして「目にしているのは都市の姿だ」です。

 普通なら、「なんじゃこりゃ」となるような表現技法ですが、物理的な現実空間からやや遊離した世界を捉える視点としては、見事にフィットしています。

 動いている人間の実質的な主人公はマリと三人称で記述されるのに、一人称の"視点"は"私たち"と記述される。

 「私が主人公ではない」という妙な幽体離脱感(小説の「僕」とか「私」は大抵、人間の姿かたちをしていて、その物語の主人公です)が、この作品の魅力の通奏低音となっています。

 内容面で特筆に価する点としては、何といっても、コオロギと呼ばれる女性の以下の台詞です。

 <「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい」>(P250)

 直観的に、「ははーん、村上さん自身の記憶観がこぼれ出たな」とわかります。

 そしてこういう核心的な言葉を、人目を忍んで生きなければならない立場の人にサラッと言われるあたりに、僕は村上さんの心温かさを感じます。

 その記憶が自分にとって、良いものであれ、悪いものであれ、記憶の蓄積が今の自分や他者との関係性を形作っていることは、おそらく疑いようのないことです。

 「人間は記憶を燃料にして生きている」とは、程度の差はあれ、おそらくその通りでしょう。

   追記.以上の随感は、独断と偏見に基づいています。

山田宏哉記
 
 2010.2.23
 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ