ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2478)

 個人としての社会活動論

 日本で会社員として組織で働くとすると、大抵、「定年」によって、否応なしに退職せざるをえなくなります。

 ここでよく問題にされるのは、「勤労所得から年金に変わるために、金銭的な収入が激減する」ということです。また日本の高齢化を見越して、厚労省は企業に対して、定年の引き上げや、継続雇用制度の充実やらを通達しています。

 しかし、それは本質的なことではありません。

 僕から見ると、老人問題の本質は、「企業を定年退職した老人の多くは、社会とのつながりを切断され、1日中TVを見るくらいしかすることがない」という点にあります。嘘だと思う人は、ぜひ病院に入院して、ご老人方の様子を観察してみて下さい。

 おそらく、唖然とするはずです。これは大きく言えば、「組織を通してしか、社会とのつながりを持てなかった人間の悲劇」です。

 そして、日本政治の意志決定は、そんな旧人類たる"TV老人"たちによって行われています。

 こんなことを書くと、今にも「老人をバカにしているのか」とか「敬老精神がないのはけしからん」という声が聞こえてきそうです。

 もちろん、高齢者の中にも、個人として立派な活動をされている方々がいることは承知しています。ただし、そのような人徳者はあくまで少数派です。

 しかも職業的には、学者や作家や画家など、いわば個人営業スタイルが成り立つ形態に偏っています。

 僕は今、入院中で宮仕えを休んでいます。幸い、社会とのつながりを失ったとは感じていません。

 理由としては、宮仕えとは独立して、自分のウェブサイトを運営しているからです。僕にとって重要なことは、これは純粋に個人の領域の活動だということです。

 会社の業務とは関係なく、生活の中に「自分で勉強して、その成果を文章としてまとめて、ウェブに掲載して、読者に読んでもらう」というプロセスが組みこまれています。

 これを社会活動と呼べるかどうかは別として、それなりのページビューがあるので、社会的孤立感は感じていません。

 例えば、「一流企業に勤めていること」にプライドを持つのは自由ですが、会社を解雇されたり、定年になったら、そのプライドは崩壊します。

 組織を通してしか社会と関わっていないと、下手をすると何も残りません。そうするともはや"TV老人"まっしぐらです。旧人類の典型例です。

 おそらく、僕たちが試されているのは、「個人として、どこまで社会と関われるか」ということです。組織の肩書に頼ることなく、どこまで自分の名前だけで勝負できるのか。

 ウェブの発達により、既に環境は整っています。ようやく、広い意味での"個人の時代"が幕を開けようとしています。

追記. ウェブに好き勝手なことを書くだけで食べていければよいのですが、それはまた別の機会に考えます。

山田宏哉記
 
 2010.3.8
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