ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2488)

 抽象空間で生きるということ

 近頃、病院にこもってほぼ1日中、情報の入出力をしています。

 大抵、PCの前に座っていて、疲れたらベッドに寝転んで、iPhoneで未読のブログなどを読んだり、ポッドキャストを聴いたりしています。

 毎日、半径50メートル以内の生活です。考えていることの大半は、経済や情報といった抽象的なことです。

 退屈することはありません。順調に知識も蓄積していると思います。

 ただし、1日中、抽象的な情報の入出力をするだけでは、どうしても"達成感が希薄"です。健康にとっても、あまり望ましいことではないような気がします。

 取り立てて、自分が行動派の人間だというつもりはないけれども、どうも生身の他者と関わったり、身体を動かす作業が含まれていないと、「何かが足りない」ような気がします。

 この辺りは、純粋な抽象空間では生きることができない人間の"ゆらぎ"みたいなものでしょう。

 それでも、ウェブの普及以前には、想像できなかったくらいに抽象的な生き方をするようになったことは、疑いようがありません。

 僕はしばらく前から、仮想空間と現実世界を明確に区分して論じることを避けています。「ウェブ上では威張っているけど、現実の生活では惨めだ」みたいなステレオタイプの物言いもしません。

 そもそも、外界を認識するのは脳の機能で、脳はいちいち、情報空間の出来事と、物理世界の出来事を区別したりはしません。

 例えば、僕の財産の大半は、株式で野村證券の口座に預けています。さらに必要に応じて、これをオンラインで売買します。当然、約定(決済)したら、代金の支払い義務が生じます。

 少し考えれば、ここで「ウェブの世界は虚構だ」とか言い出すことのナンセンスは明らかでしょう。

 また、アマゾンで買い物をするときはクレジットカードで決済しますが、「ウェブは幻想だから、代金の引き落としは認めない」とか言い出したら、それこそ精神病院行きです。

 さらに、僕はウェブサイトも実名でやっていますので、そこで公表される思考や表現は、物理世界の僕と地続きになっています。

 僕も正直、こんな世界で生きることになるとは思っていなかった。

 手塚治虫や藤子不二雄にしても、空飛ぶ自動車やTV電話を想像することはできても、さすがに「"情報ネットワークに接続した個人"が暮らす抽象空間」を想像することはできなかった。

 そして当然、人類がこれほど抽象化した空間で生きるのは、有史以来、初めてのことです。

 まだ、ウェブを"現実そのもの"だと思えない人も、オンライン・トレードとクレジットカード決済を始めれば、否応なしに、ここが「シャレでは済まない場所」だと気付くでしょう。

追記.ちなみに、いわゆる"リア充"というスラングは、廃止するか、定義を変えるべきでしょう。オンライン・トレードで設けた人や自分のウェブサイトへのアクセス数が多い人も含める、とかね。

山田宏哉記
 
 2010.3.13
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