ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2491)

 東大学部卒は知的エリートか?

 週刊現代「『東大までの人』と『東大からの人』」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/172 という記事がなかなか面白かったのですが、思うところがあったので記しておきます。

 日本ではいまだに、「どの大学に入学したか」が結構、重視されます。確かに、難関とされる大学と、試験の答案用紙に名前を記入すれば合格する大学を同列にすることはできないでしょう。

 庶民の感覚では、「その難関大学の頂点に立つのが東京大学であり、その卒業生は"知的エリート"である」みたいな感じではないかと思います。

 しかし、時代状況の変化により、この認識はあまり的を射たものではなくなりつつあると感じます。この背景には、「"高学歴"の定義の変化」と「実務家の高学歴化」にあります。

 従来の"高学歴"の定義とは「偏差値の高い大学(学部)を卒業したこと」でした。これからは、高学歴とは「より高い学位(博士号、修士号)を持っていること」を意味するようになります。

 日本的価値観の中では「院卒は理屈っぽくて、実社会では通用しない」というのが通り相場でした。だからこそ、特に文系においては、大学の学部卒で就職するのが常識であり、その中で大学ランキングというものが機能してきました。

 さて、PCが普及する以前には、企業にとっては、とにかく人員の頭数が重要でした。電卓で手計算をしたり、書類は手書きといった世界です。

 今は、情報化とアウトソーシングによって、それほど人が必要なくなりました。特に企業が基幹従業員として直接雇用するのは、「徹底的に勉強してきた人」にシフトする方が合理的です。

 近頃、大卒の就職内定率の低さがよく報道されますが、徐々に"学部卒"ではかつての"高卒"のように、"体力勝負"の職種につくことが多くなると思います。  

 東大生の中には、「東大生という色眼鏡で見られることを嫌い、わざと馬鹿なフリをする」という人もいるようですが、愚の骨頂です。

 東大生の潜在能力や知能指数が高いのは確かでしょうが、もはや東大の学部卒の段階では高学歴とは言えません。それは、灘や筑駒を卒業しても、大学に進学しなければ学歴は高卒止まりであるのと同じです。

 繰り返しますが、高学歴とは「より高い学位を持っていること」です。

 日本的価値観に縛られ、たかだか学部卒で知的エリートを気取っているようでは、この世界の構造変化に押しつぶされるのではないでしょうか。

追記.もちろん、東大というのは、あくまで"従来の高学歴の象徴"として持ち出しただけで、別に個人的な恨み等があるわけではありません。

山田宏哉記
 
 2010.3.15
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