ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2503)

 日常に生きる 日常を生きる

 一般社会からの逸脱期間を終えて、また日常が始まろうとしています。

 この1ヶ月ほど、割と生活をする上で不可避的な雑事からは解放されていました。

 確かに、病院という空間は不便で、一日が半径50メートル以内で収まってしまうような場所です。その分、情報の入出力に専念するような、非常に抽象的な生活を送ることができました。

 これはこれで、僕にとって得難い経験であり、非常に貴重なものでした。

 おそらく、仕事や家事といったことを含めて、日常というのは、理論や設計図の通りにはいかない世界です。人はそれを「現実と格闘する」と言ったり、「理屈だけでは事は進まない」と言ったりします。

 指していることは、おそらく同じです。現実が思い通りにいかないことは、厳然たる事実です。

 僕たちにとって本当に切実なことは、やはり日々の糧を得ることであり、まともな食事にありつくことであり、寝る場所を確保することです。

 このような基礎的な条件を欠いたままに、知識をひけらかしたり、教養を誇ったり、天下国家を論じるのは、やはり滑稽なことであり、不健康なことです。

 僕自身、入院中は純粋な情報の入出力やウェブサイトの運営が割と順調に進みましたが、これは純粋培養に近い環境だからできたことで、それが常態というわけではありません。

 今後、僕が書く文章は、入院中よりは「地に足がついた」ものに変化していくと思います。あるいは、泥臭いものになるでしょう。

 純粋に情報という観点からみれば、論理の切れ味は悪くなるし、設計上の不備も多くなるかもしれません。文化や教養といったものからも、遠ざかるかもしれません。

 入出力につぎ込める時間も絶対的に減ることは避けられません。

 ただ、日常生活の中で、責任を引き受けて生きるということが、ひとりの人間としてマイナスになるとは考えていません。

 もとより、与えられた環境というのは一定の制限があるものです。僕たちにできることは、その枠の中でベストを尽くすことだけでしょう。

追記.森博嗣(著)『創るセンス 工作の思考』(集英社新書)を読んでそんなことを感じました。

山田宏哉記
 
 2010.3.22
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