ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (2506)
推理小説にとって殺人事件とは何か?
推理小説と殺人事件は切っても切れない関係にあります。タイトルがそのまま『○○殺人事件』となっているものも少なくありません。
推理小説にとって、殺人事件が欠かすことができない素材だということは、異論がないと思います。
人が死なないことには、何といっても盛り上がりに欠けます。ハリウッド映画でも、ストーリーを盛り上げるために、虐殺のオンパレードです。
そして推理小説においては、殺害方法は奇抜で不可思議であるほど望ましい。どのような精巧なトリックを使って人を殺すかが、作者の腕の見せ所です。
こうして考えると、殺人事件そのものは不幸な出来事ですが、殺人事件を題材にした小説や報道は、一種のエンターテイメントであることがわかります。
殺人事件を題材とした推理小説とニュース報道では、直情的に訴えかけてくるものは似ていますが、顕著な違いもあります。
殺人事件を扱うニュース番組では、報道する側にも、視聴する側にも、「神妙な顔をしなければならない」というルールがあります。
ですので、推理小説の感想と同じように、「これは見事な殺害方法ですね」とか「被害者は殺されて当然ですよ」などとコメントするのは、極めて不謹慎だとされます。
ハッキリ言えば、神妙な顔を免罪符にすることで、娯楽として殺人事件報道を楽しむ自分を倫理的に許している。
新潮社の斎藤十一氏は正直ですから、「君たち、人殺しの顔を見たくはないのか」といった。これならわかります。
本当を言えば、僕たちは、殺人事件の容疑者の顔写真や私生活など知る必要はありません。そういう報道は一流メディアの任務ではない。
"市民としての正義感"からそういう情報を知りたいというのは、欺瞞です。
この際、ハッキリと認識しましょう。殺人事件の報道は、人の不幸をネタにした最高のエンターテイメントなのです。
追記. 核心を捉えた手ごたえあり。
山田宏哉記
2010.3.25 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ