ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2509)

 人はなぜ、物事に意味と必然性を求めるのか

 宝くじに当たった人がいたとする。その人はたまたまカルト教団の信者で、毎日、電柱に頭突きをかましているとする。

 彼に「宝くじで当選する秘訣は何ですか」と質問したら、何と答えるか。「ええ、毎日、電柱に頭突きをすることです」。

 こうして街には、電柱に頭突きをする人が溢れることになりました、とさ。

 「後講釈なら誰でもできる」とはよく言ったものです。この種の怪しげな"成功法則"は、案外、ビジネスとしても成り立ってしまうのも、不気味なところです。

 世の中には、「たまたま起こった事実」と「再現性のある事実」があり、両者は混同しやすい。原因は、因果関係の評価を見誤ることにあります。

 宝くじの当てた人でも、「実は予め当選番号を知っていた」などの手法であれば、その情報には価値があります。

 サンプル数を多くして、統計的な見方をすれば、因果関係を見破れるかと言うと、必ずしもそうではありません。

 例えば、バレーボールの選手は、平均的な成人男性よりも身長が高い。ただし、そこから「バレーボールをすれば身長が伸びる」と言うことはできません。

 確かに両者に相関関係はあります。

 しかし実際は、もともと身長が高い人がバレーボールという競技を選択するのであって、何もバレーボールをしたから身長が伸びたわけではありません。

 学問的な研究においても、相関関係と因果関係の混同は、よく散見されます。

 人間の認知機能は、物事に「意味づけ」して、必然性を見出す方向に働きます。正直、このバイアスは修正しがたい。

 「今回の出来事はたまたま起こっただけです。ただの偶然です」とはなかなか評価できない。

 このような考え方では、究極、人間がこの世に生まれたのは、ただの偶然であり、特に意味はない、という認識に行き着くからです。

 これはたぶん、普通の人には耐えられない。自分がこの世界に生まれ落ちたことには、何らかの意味があり、必然性があったのだと思いたい。

 どれだけテクノロジーが発達しても、相も変わらず「意味を求める病」は癒されることなく、人は宗教に救いを求めることになるのでしょう。

 また、そのような人の営みに対して「客観的に間違っている」などと批判するのも的外れでしょう。

 僕だって、「人間は、意味もなく生まれ、意味もなく死んでいくのだ」というニヒリズムの主張をすることが、人生にとって有益であるとは考えていません。

 ただ、人間には物事に意味と必然性を見出そうとするバイアスが働いていることは、覚えておいて損はありません。

 宝くじの当選者の中に、電柱に頭突きをする人はいるかもしれませんが、僕たちがそれを真似るのは有害無益なことでしかありません。

追記.以上、かなりの核心を射た手応えあり。

山田宏哉記
 
 2010.3.27
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