ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2516)

 自己正当化との折り合い

 人は、自分の行いを正当化するものです。このこと自体には、善も悪もありません。

 人生のある時点で、決定的な選択をしたとする。ひとつ言えるのは、大抵の場合において、どちらを選んだとしても、主観的な納得感はあまり変わらないであろう、ということです。

 Aという選択をして「よかった」と思う人は、仮にBという選択をしたとしても「よかった」と感じるでしょう。

 対照的に、Aという選択を後悔し「Bにしておけばよかった」という人は、仮にBという選択をしていたとしても「Aにしておけばよかった」と後悔するでしょう。

 もちろん、現実には、これを検証することはできません。しかし、直観的にそう思います。

 自分のこれまでの軌跡を、過大に評価して、正当化するからこそ、僕たちは何とか生きていることができる。

 幼少の頃から現在に至るまで、「選択の間違いの連続だった」と自己評価するのは、やはり厳しいものがあります。それよりは客観的な事実がどうあれ、「これでよかったのだ」という納得感を得られることの方が、遥かに大切です。

 ただし、人間には、「自分の行いを過大評価する」という癖があることは、覚えておいた方がいいでしょう。

 例えば、自分の専門としている分野が、廃れつつあるとします。そんなとき、「これでいいのだ」と自己正当化することは危険です。

 100%のコミットをするのではなく、どこか頭の片隅で離脱する用意をしている。  

 主観的には自分の人生に誇りを持ちながらも、客観的にはどこかで自分の人生を疑っている。

 相矛盾するような精神状態ですが、この社会を生き延びるためには、どうしても必要な要素なのではないでしょうか。

追記.それにしても、自分の視点にはバイアスがかかっていないと考える人が多いのには驚かされます。 

山田宏哉記
 
 2010.3.31
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