ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2536)

 理由が必要とされる行為は「悪」である

   理由が必要とされる行為は「悪」である。

 昨夜、半分くらい寝ている最中に、この仮説が思い浮かびました。忘れないうちに、急いでiphoneからツイッターに投稿しておきました。そして、また寝ました。

 僕は、ほとんど人間は、直観的に善悪の判断がつくと考えています。

 違法というわけではないけど、何となく躊躇や後ろめたさを覚える行為というものがあります。

 個人差はあるでしょうが、身近な例を挙げれば「パチンコに行く」とか「株で儲ける」とか「匿名で他者を誹謗中傷する」とか、そういうことです。

 そんな時、人は「それをしてもよい理由」を探します。

 「パチンコはストレスの解消になる」とか「株式投資は経済の勉強になる」とか「匿名で批判するからこそ、社会正義が実現される」などと頭で考えます。

 僕が言いたいのは、そうやって考え出された理由の当否ではありません。

 善悪の判断の場面で、最初の段階で何となく躊躇を覚えて、「やってもよい理由」を探した時点で、その行為は「悪」だと判定すべきだと言うことです。

 水商売を悪く言う気はないけど、例えば「ホストやキャバクラ嬢になるべきか、否か」で迷ったとする。

 判断基準は簡単です。何となく躊躇を覚えたかどうか。

 仮に「やってもよい理由」を探すようならば、当人にとって、あまり良いことではありません。

 人間の直観が、そういう場面で過つことは、さほどありません。善悪の判断を理屈で行うから、過つのです。

 別に「悪を為してはならぬ」とは言いません。ただ、その自覚は持っていた方がいいと思います。もちろん、「悪と知りつつ、悪を為す」というのはその人の自由です。

追記.先回の「なぜ、人を殺してはいけないのか」と併せて、大井町のココスで書きました。

山田宏哉記
 
 2010.4.16
 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ