ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2539)

 メディア化する<私>

 まず、具体的な事実から記しましょう。

 僕は今、ドトールで紅茶で飲みながら、この文章を書いています。書き上げたら、HTMLファイルにして、ウェブに接続し、FTPでサーバにアップします。それで、僕のウェブサイトが更新されます。

 そして、ツイッターに「ウェブを更新しましたよ」と通知を流します。その情報はフォロワー(購読者)に伝わると同時に、トップページにも掲載されます。

 今は当たり前のようにしていることですが、一昔前は考えられなかったことです。

 インターネットを使うようになる前は、身近な人以外に自分の考えを伝えようと思ったら、新聞や雑誌の読者コーナーに投書するしかなかったのです。

 しかも、そこには編集者という壁があって、その新聞や雑誌の"編集方針"や"思想傾向"に合わないものは、自動的に没になっていました。

 常に思うのは、「技術やプラットフォームがコンテンツを規定する」という側面は決して小さくないということです。

 「カフェでノートPCで作業をする」という光景は、2000年以前にはほとんど見られなかった光景だと思います。

 当時は、ダイヤルアップ接続等が主流でした。無線でウェブ接続が可能になるとは、想像できなかった。でもとにかく、一通りは技術的なボトルネックが解決された。

 ウェブの更新頻度にしても、HTMLベースのウェブの場合、一定の分量のキチンとした文章を載せようと思ったら、そう1日に何度もできることではなかった。

 だから、個人ウェブサイトでは、例えば大量の人員を投入した新聞社のウェブサイトの記事の更新頻度には対抗のしようがなかった。

 ツイッターとウェブを連動させておけば、「ツイッターへの投稿回数=ウェブの更新頻度」になります。1時間に1回くらいツイッターに投稿すれば、1日に10回以上更新したのと同等の意味を持ちます。これは、それほど難しいことではない。

 その結果、何が起こったか。本質を一言で言うなら、「僕たちひとりひとりが"メディア化"した」ということでしょう。

 日常の何気ない気付きであっても、とりあえずツイッターに投稿しておけば、日記や覚書の代わりになります。その情報が誰かに伝わって、実際的に役に立つこともある。

 また、ブログの記事が一行だったら「あれ?」という気がするけど、ツイッターであれば、たとえ「一行情報」であっても、充分に誰かに伝える意味と価値があります。

(例えば、長文を書いていて、「文脈に合わないな」と感じた一文は、削除するのではなく、ツイッターに投稿しておいた方が"有効利用"です)

 今更だけど、それってとても素晴らしいことじゃないだろうか。単純に楽しいじゃないか。

 そして、日本経済の将来は暗くても、ウェブにオープンな言論とコミュニケーションの空間が確保されていれば、意外と僕たちは満足できるのではないだろうか。

追記.ただし、この文章をアップしようとしたら、Eモバイルの圏外だったというオチがつきます。

山田宏哉記
 
 2010.4.16
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