ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2564)

 リアルタイム・ウェブが拓く"新しい表現"

 僕は今、正直、興奮状態にあります。本日、ウェブサイトに設置したツイッターの表示をチェックしていた人には、その理由が分かると思います。

 これは凄い。そして、面白い。思わず自画自賛したくなる手応えでした。

 前半は、川島の農産物直売所や大型ショッピング・センターからリアルタイムでシュールなコメントと写真をつけてツイッターに投稿しました。

 郊外型のショッピング・センターは「日経ビジネス」でも特集されたテーマで、素材そのものに一定の公共性があったと思います。

 例えば、「セメント25キロ\398。これはお買い得だ!」という投稿は、"リアルタイムの臨場感"があったからこそ面白かった(つまらなかった人には、申し訳ない)。

 大げさに言えば、"新しい表現の可能性"に触れたという手応えがありました。具体的には、「"現在位置のコンテンツ化"とその批評」が成り立つという手応えです。

 とはいえ、僕があの写真を持って帰って、改めてPCでアップして「これはお買い得"でした"!」と書いても何かが決定的に損なわれている。いや、読者は面白いかもしれないけれでも、僕の中では"熱"が冷めている。

 セメント25キロ\398という情報は、実際的に役に立つことは少ないでしょうが、「情報として価値がない」とまでは言えません。

 後半はさらにシュールです。地元のお店や見所を写真を撮りながら回って、寸評を加えました。素材としての公共性は、ほとんどないと言っても過言ではありません。

 それでも、面白かった。その感覚は一部の読者には伝わったと思います。

 その種の"中途半端な価値"の情報をブラッシュアップして、伝える価値があるコンテンツにするためには、"リアルタイム化"というのはひとつの方策です。

 予てから書いていますが、いやはや"リアルタイム"には、強い中毒性があるものです。

 なぜでしょう。渦中にいる人間の記述と、後から回想された記憶には、決定的な断絶があります。そして、読者は敏感にそれを感じ取る。

 渦中にある人間の言葉の方が、圧倒的に訴求します。なぜなら「この後どうなるか?」がわからないから。つまり、まだ可能性が開かれている。

 回想には、それがない。「結局はこうなった」ということが予めわかっている。だから、悩みや葛藤も、リアルではない。どうしても後講釈で語ってしまう。

 技術的に誰でも簡単に"中継行為"ができるようになったのは、やはり素晴らしいことです。何より、現場にいる人の声に勝るものはありません。

 「その場で書く」ということと、「家に帰って思い出して書く」ことの差は大きい。そして、これまでは技術的に「思い出して書く」しかなかった。

 今日の"実験"では、それを確かめてみたかった。"気になる光景"を写真に収め、評釈を加え、直ちにツイッターに投稿する。これで、ウェブサイトの表示も更新されます。

 ツイッターは他のウェブサイトなどのメディアと組み合わせることで威力を発揮するツールです。

 もちろん、課題は多い。もっとスマートに、もっと情報価値の高いものを提供するべきでしょう。それはわかっている。

 また、最近僕がツイッターに言及する機会が多いことに、不満を感じる人もいるかもしれない。

 それでも尚、このような時代に生きることができた幸運を、噛みしめないわけにはいきません。

追記.以上、GWが終わりの夜に感じた"希望"でした。

山田宏哉記
 
 2010.5.5
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