ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2570)

 "不遇な青年"あるいは"青年の不遇"

 世の中に「自分は正当に評価されている」と感じている人はほとんどいないと思います。これは、社会的地位や収入の多い少ないとは関係ありません。

 僕から見れば、羨むような知名度と収入がある方でも案外、「自分はメインストリームから無視されてきた」といった愚痴をこぼしたりするものです。

 ただ、中でも深刻なのが、若い人が感じる「自分は認められていない」という"不遇感"です。

 この感情は一歩間違うと、犯罪や自殺にも結びつくので、取り扱いには注意が必要です。

 10代後半から20代の前半にかけては、まだ自分の将来に対して多くの選択肢が残されている。自分の能力と決断次第で、医師になることもできれば、研究者になることも、芸術家になることも、会社勤めをすることもできるでしょう。

 これは素晴らしいことです。

 実際には、かなりタイムリミットが迫っていますけれども、何かになろうと思えば、"まだギリギリ間にあう"という年頃です。

 その反面、大抵の人には、まだ"実績"がない。それは、自分がまだ何者でもない、ということに他なりません。

 ノーベル賞受賞者の利根川進氏も『精神と物質』(文春文庫) の中で、若い頃を振り返って「自分はNobodyだった」という趣旨のことを語っています。

 Nobodyというのは、要するに取るに足らない人間のことで、いくらでも代替が可能な人のことです。

 言い換えると、社会の中に確固とした"自分の居場所"がない。これはそのまま、"自分(の居場所)探し"につながります。

 この際、ハッキリ言いましょう。ほとんどの学生は、まだ社会的にはノーバディに過ぎません。自分の生活費を稼ぐことすらできない、取るに足らぬ存在なのです。

 こう言われてカチンとくるのは、たぶん図星だからです。大学時代の僕がそうでした。

 僕自身にとって、間違いなくこれはつらいことだったし、きっと血気盛んな年頃の男性(女性に関してはよくわからない)にとっては、"自尊心の危機"と言ってもいいほどの事態でしょう。

 さらに、スポーツや芸術の世界で、自分より年下の世代が活躍したりすると、焦燥感は募るばかりです。

 僕は、聖人君主ではありませんので、何か決定的な答えを持っているわけでもありません。

 この社会の中に居場所がない"不遇な青年"に対して、何か言葉をかけるとしたら、おおよそ次のようなことでしょう。

 安易に"癒し"や"救済"を求めるな。

 腕を磨き、研鑽を積み、いまは虎視眈々と待て。不遇でもふてくされるな。活躍の場は必ずやって来る。それに食らいつけ、と。

追記.以上、先回の「自尊心、その厄介なもの」が割と熱心に読まれたようなので、敷衍の意味もこめて書きました。

山田宏哉記
 
 2010.5.11
 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ