ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2571)

 発言と人格は別物である

 最近、一目置いていたネットラジオのパーソナリティが、ウェブ上での実名・匿名論争に関して、勝間和代氏に対して「胡散臭い」と連発していました。

 論理的な主張とは言いがたく、これは正直、聴くに堪えませんでした。

 著名人に対して、"胡散臭い"とか"嫌い"といった地の内面を吐露するような批判の仕方は、自分の品位を落とすことになるので、止めた方が賢明だと思います。

 もちろん、発言の不備を指摘したり、主張に反論したりすることは、大いにするべきでしょう。

 しかし、発言の不備を指摘するのと、「あの人は胡散臭い」と言い触らすのでは、意味が全く異なります。

 少なくとも、公共の空間で主張として堂々と使う言葉ではありません。批評とは言動に対してするものであって、人格に対してするものではないわけです。

 もっとも、ここで固有名詞が勝間和代氏であることは、本筋ではありません。他の著名人であっても同じことです。

 公共の場で、素人の「あの有名人は"胡散臭い"」という主張が拍手喝采を浴びるというのは、どう考えてもおかしいと思う。これは「障害者は気持ち悪い」という類の発言と同型です。

 要するに、発言の中に建設的なものが何も含まれていない。これでは、単なる悪意の吐露です。

 発言と人格が未分化というのは、日本社会にとって不幸なことです。

 元来、人間が、自分と違う思想や価値観の持ち主と共存するためには、意識的な努力が欠かせません。元来、人間は論理ではなく、感情で動く動物だからです。

 ほとんどの人にとって、言論や表現の自由はどちらかと言うと不快なものです。

 それでも、そういう"思想的不快さ"を許容できるということが、成熟した社会に生きるメンバーの条件なのだと思います。

追記.ちなみに、ウェブ上の実名・匿名問題は「本人の自由」で決着済でしょう。

山田宏哉記
 
 2010.5.12
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