ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2572)

 他者からの評価をどう受け止めるか

 社会を生きる上で、"評価"というものを避けて通ることはできません。自分が評価する側に回ることもあれば、自分が評価される側に回ることもあります。

 そのような重要な問題にもかかわらず、基本的に"公平な評価"というのは、ありません。

 世の中に「今の自分は正当に評価されている」と感じている人はほとんどいないと思います。それくらいの方が、次への意欲につながるというよい側面もあります。

 混乱の根源は何より「評価の基準が明確ではない」という点にあります。

 振り返れば、「試験でいい点数を取れば、高い評価をもらえる」という学校のシステムは、制度としては相当に公平でした。

 "努力"や"好き嫌い"が排除され、評価基準が明瞭だからです。

 「"努力"が認められないのは不公平だ」という人もいるでしょうが、実際は、努力が評価の対象になった方が不公平です。

 これでは、公立中学では「"内申点"を上げるために"ボランティア活動"をする」という腐敗が蔓延するようになります。

 いわゆる"成果主義"の最大の問題点は、「評価が公平ではない」という点にあります。

 実社会では、「技能さえあれば、人格や礼儀作法は問わない」という型の人もいれば(僕はこの立場です)、技能は二の次で人格や礼儀作法や"努力"を重視する人もいます。

 日本人の多数派はたぶん後者でしょう。

 ただ、成果主義の名の下に、結果を出したにも拘わらず、「協調性がない」とか「礼儀作法がなってない」などの理由で評価を引き下げられては、意欲が削がれることは間違いないでしょう。

 最近では、評価に関わりなく、ある程度の年次までは自動的に昇進する"年功序列"の方が評判がいいのは、おそらくこの辺りに理由があると思われます。

 もちろん、他人から高く評価されれば嬉しいし、低い評価ならば悔しい。当たり前です。その当たり前のことを踏まえた上で、敢えて書きます。

 「結局、人間の評価なんて当てにならない」という覚めた感情を持つことは、現代人に不可欠のリテラシーのように思います。

 よい評価を得ることを目的にしない。高く評価されても浮かれない。低く評価されてもふてくされない。

 あくまで「いい仕事をした結果として、評価は後からついてくる」くらいの淡い期待を抱くくらいが、ちょうどよいのではないでしょうか。

追記.以上、本来ならば1つの記事にしようとしたところ、話が広がりすぎたため、先回分と今回分に分割しました。

山田宏哉記
 
 2010.5.12
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