ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2582)

 活字メディアにとって写真とは何か

 本日、自転車に乗って地図を片手に京浜工業地帯に"遠征"してきました。その成果は、「昭和世代の原風景 京浜工業地帯をゆく」としてまとめました。

 収穫は多かった。特に"文章執筆の方法論"の部分で、ある種の"打開策"を見出すことができたと自負しています。

 実際、この種の"遠征活動"は、「見学」あるいは「サイクリング」という本来の目的に付随して、体力の増強、写真媒体への記録、ツイッターへの投稿、ウェブサイトの更新という副産物ももたらすので、極めてコストパフォーマンスが高いものです。

 もっと露骨に言うならば、「"遠征活動"で気になる写真を撮りまくり、家に帰ってから文章と写真のハイブリッド型の記事としてまとめる」という執筆スタイルは相当に使えると気付きました。

 簡単そうに見えるけど、実は簡単には真似できない。

 まず、一定のITスキルとデバイスが必要されることは言うまでもありません。

 もっともこれは「写真を撮って、ウェブ上にアップロードする」とか「HTMLのソースに画像を埋め込む」くらいのレベルの話です。写真を使うとなると、テキストのみの場合と比較して、編集やレイアウトの手間は格段に上がりますが、技術的には大したことではありません。

 普通の人が、"文章と写真のハイブリッド型の記事"の書く際に、最も障害となるのは、言語能力が足りない点です。簡単に言えば「文章が写真に食われてしまう」のです。

 写真家が自分の写真を解説する場合は、写真が"主"で文章が"従"であるのは、ある意味で当たり前でしょう。いや、これは世間一般の価値観でもあります。

 しかし、曲がりなりにも活字の側に立つ人間が、「写真が"主"で文章が"従"である」という価値観を受け入れるのは、自殺行為に等しいと思います。

 今こそ僕は勝手に活字メディアを代表して「文章が"主"で、写真は"従"である」という価値観を公然と宣言します。

 もちろん人間は、自然と文字よりも写真に目がいきますし、訴求しやすい点は承知の上です。だからこそ、強力な言語能力で写真を捻じ伏せる必要があるのです。

 活字メディアは、写真の解説文を書いてお茶を濁すべきではない。文章の解説を写真にさせるべきなのです。それが、活字メディアにとっての写真の位置づけです。

 "写真の解説文"に堕すのではなく、"文章と写真のハイブリッド型の記事"であるためには、それくらいに文章の側に肩入れする必要があるのです。

 おそらく、ほとんどの人は写真に比肩しうるだけの言語表現能力を持ち合わせていません。僕自身、その水準に達しているとは言いがたい。職業的なモノ書きですら、写真や映像との競争を最初から諦めている節が見られます。

 それでもなお、方向性として「写真を従属させる文章」というのが、低迷する活字メディアにとっての、ひとつの打開策になりえると僕は感じます。

 今こそ言うぞ。思考を規定するのは、写真や映像ではなく、活字に他ならない、と。

追記.写真や映像に喧嘩を売るというのは常軌を逸した発言かもしれませんが、僕は本気です。

山田宏哉記
 
 2010.5.22
 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ