ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2583)

 "都市"の台頭、東京の戦略

 隈研吾・清野由美(著)『新・都市論TOKYO』(集英社新書)を読了しました。これは傑作と言ってよい書籍です。中でも隈研吾氏の鋭い思考と言語表現能力は、特筆に価します。

 個別具体的に言及したい点はいくらもあるのですが、本書が気付かせてくれた最も大きなアジェンダ設定は「"国民国家"に代わり、"都市"こそが21世紀の政治経済の主要なアクターになる」という点にあります。

 もっとも、この点は本書で明確に述べられているわけではありません。それでも、僕にはその息吹が感じられました。

 僕がこの感触を最初に感じたのは、小室哲哉氏の「僕のナショナリティは東京だ」という趣旨の発言に接したときです。もう10年以上も前のことで、小室氏にももはやかつての"カリスマ性"はありません。

 それでもなお、僕にはずっとこの言葉が気にかかっていました。

 それどころか、東京を離れて、東京に戻ってくるときはいつでも、「僕のナショナリティは東京だ」と実感するくらいです。

 最近では、NHKスペシャルの「沸騰都市」のシリーズを観たときにも、「都市の時代の幕開け」を薄々と感じていたものです。ただし、そのときはまだ、明瞭に言語化するには至りませんでした。

 自分の帰属意識を観察すると、随分と 国家(日本)から都市(東京)へとシフトしたように思います。

 これは、情報技術の相性とも密接に関わっています。情報空間がフラット化したからこそ、逆説的に、"都市"という空間と概念の重要性が高まった。都市とは言い換えれば、"ネットワークの密集地帯"に他なりません。

 20世紀が"国民国家"の時代だとしたら、おそらく21世紀は"都市"の時代なのだと思います。これは確信にも似た予感です。

 池田信夫氏もブログで、「都市に資源を集中して知識集約産業を伸ばし、地方を切り捨てて人々が都市に移住する必要がある」http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51424226.htmlという主張をしています。

 見逃してはならないのは、人間は自分の住む場所を決めるとき、実際には、"国単位"ではなく、"都市単位"で考えるという点にあります。

 日本人が「大阪に住もうか、名古屋に住もうか」と考えるのと同じように、「シドニーに住もうか、ニューヨークに住もうか」と考える時代は、既にやってきています。既に"グローバルな都市間競争"は現実のものになっています。

 「地方の活性化」を言うのは結構ですが、競争上、より大切なのは東京に資源を集中させることです。

 21世紀の"都市間競争"に打ち勝つためことを考えるなら、日本は東京に資源を一極集中させることで、例えば、上海、香港、シンガポールのような"覇権都市"に対抗するべきなのです。

 野心的な若者は、上京することが望ましい。もちろん、東京の闘争的な側面が肌に合わない人もいるでしょう。そういう人こそ、地方を支えるのに適しています。

 非常にラディカルな戦略を言うならば、日本は今こそ"民族大移動"を起こす必要があります。つまり、野心と才能と闘争心のある人材を東京に一極集中させ、のんびり生きたい人には地方に移住してもらい、その地方を支えてもらうのが合理的です。

 ある意味、それが"人材の最適化"であり、"東京がとるべき戦略"なのだと僕は思います。

 いずれにせよ、来るべき都市の時代、そして都市間競争に向けて、僕たちは今、重大な岐路に立っているように思います。

追記.以上、僕のナショナリティは東京なのでした。

山田宏哉記
 
 2010.5.23
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