ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2592)

 好き嫌いを貫くために勉強をする

 勉強する目的を簡潔に語れる人は、意外といないように思います。確かに"政治的に正しい答え"というものは存在します。

 例えば、「人間としての教養や見識を身につけるため」と言っておけば、とりあえず無難です。建前上、強く反対する人はいないでしょう。

 ただし、一気にテンションが下がる回答ではあります。子供が聞いて「よし、勉強しよう」と思うことはないでしょう。

 「一生懸命勉強をすれば、いい大学に入って、いい会社に就職して、たくさんお金を稼いで、安定した生活を送ることができる」という回答は、"人間的見識"みたいな建前に対するアンチテーゼではあります。

 でも、今時、予めレールを敷かれたような生き方が魅力的かと言えば、そうではないでしょう。

 「勉強自体が楽しいから」という回答は、あまりに属人的です。「もともと勉強が好きな人以外は勉強しなくてもいい」ということになります。これだと公共の側面で色々と支障がでることになります。

 勉強する目的を、一定の公共性と訴求力を持つ言葉で表現するとどうなるか。僕はようやく気付きました。

 勉強する目的は、「好き嫌いを貫くため」です。

 僕は人生の大半のことは好き嫌いで決めて構わないと思います。それが自然なことです。

 もっとも、それを公共性のある表現に言い換えることは必要です。「好きだから、嫌いだから」では、他者を説得することはできません。

 「私が○○をすれば、地球環境への負荷が減って、世の中に貢献できる」といった言い方をする必要があるわけです。そこで勉強が力を発揮することになります。

 「好き嫌いで生きる」と言うと、怪訝な顔をする人も多いでしょう。不謹慎なようにも思えます。

 「好き嫌いを貫く」というのは、予想以上に難しい。単純な話、好きなことを仕事にできる人は少数派です。

 生活のために嫌々仕事をしている人は、その時点で、好き嫌いを貫けていない。

 それ以外の場面においても、好きなものを好きと言えなかったり、嫌いなことを嫌いと言えなかったりすることは、しょっちゅうです。

 何も勉強すればそれらの問題が解決するわけではありません。ただし、勉強をしないと世の中の"理不尽な圧力"に屈する場面が多くなることは確実です。

 好き嫌いを貫くために勉強をする。それは一人の人間としての決意であると同時に、公共性と汎用性を持つ力強い宣言でもあるのです。

追記.シンプル・イズ・ベストといったところでしょうか。

山田宏哉記
 
 2010.5.30
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