ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2616)

 2010年の東京タワー そこに行く意味

 2010年6月26日、東京タワーを探訪した。

 残念ながら、東京タワーにはあまり語るべきことがない。東京タワーに行けば、何かがインスパイアされるのではないか、という期待は見事に裏切られた。

 時代に乗り遅れたチープさが、どうも僕には合わなかった。

 私は大展望台まで階段で歩いて昇った。おかげで「階段認定証」をもらうことができたが、その発想からしてB級である。

【写真1】何故かマイケル・ジャクソンの追悼イベント


【写真2】大展望台への階段


【写真3】栄光の昇り階段認定証


【写真4】ルックダウンウィンドウ


【写真5】大展望台からの景観


 今こそ、正面から問いたい。果たして、東京タワーに行く価値はあるのか、と。

 東京タワーに行けば、周囲の人に「東京タワーに行ってきた。景色が奇麗だった」と言うことができる。これが東京タワーに足を運ぶ最大のメリットだろう。ただし、それ以上のものを期待してはいけない。

 さらに言うならば、不慮の事故や病気によって、余命が残り少ない時、「死ぬ前に一度、東京タワーに行きたかった」と思うようなことは避けたい。

 この世には、東京タワーよりも大事なものがいくらである。その意味で、時間のある時に東京タワーに足を運び「あぁ、こんなものか」と確認しておきたいものだ。

 もちろん、「あえて、東京タワーに登らない」という選択もありだろう。東京タワーはある意味で、日本人の精神的な支柱だった。しかし、実際に探訪するとB級感に満ちあふれていて、精神的な支柱にするには不適切だと気付いてしまう。行かぬが仏、東京タワーか。

 最後に一言。ルックダウンウィンドウ(【写真4】)の上ではしゃいで、ガラスが割れて転落して人生を終えることになったら、それこそB級の人生そのものだろう。

山田宏哉記
 
 2010.6.28
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