ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2616)

 インプットとアウトプットの媒体を別にする

正直に言えば、音楽鑑賞が好きな人はミュージシャンには向いていない。

スポーツ観戦が好きなのはアスリートとして不適格だし、読書が好きな人は、物書きや編集者として不適格だ。「やる側に立つ」という意志を支えるのは、実は既存の作品に対する強い不満である。

 出版社の面接でも「自分はいかに本が好きか」をアピールするのは得策ではない。それより「既存の出版物の中には、本当に読みたい本がない」とし、携えた出版企画を披露する方が賢明だろう。

 僕はいつからか「アウトプットする媒体とインプットする媒体は、意識的に別にした方が賢明かもしれない」と考えるようになった。

 例えば、「小説好きが書いた小説」とか「映画好きがとった映画」を考えてみよう。おそらく、″小説好きが書いた小説″は、予め小説が好きな人にしか訴求しないだろうし、「映画好きがとった映画」は、予め小説が好きな人にしか訴求しないだろう。

 つまり、インプットの媒体とアウトプットの媒体を同じにすると、どうしても縮小再生産を繰り返し、自家中毒になる。

 例えば、書物に関する批評を一般に"書評" と言います。″書評″という行為は、「活字を読んで、活字で表現する」という意味において、それだけで自家中毒的な要素を含んでいる。

 さらにここから、″書評の批評″が始まり、「そんな書評をするは、原本をキチンと読めていない証拠だ」などと批評をはじめると、一部のマニアを除いて、もうほとんどの人がついていけなくなる。

 表現者というのは、基本的に自分がアウトプットする分野が″好き″である場合が多い。

 これが曲者で、だからこそ、ついインプットの媒体とアウトプットの媒体を同じにしていまう。つまり、音楽を聴いて、作曲する。本を読んで、小説を書く。芝居を観て、演劇をする。

 だからこそここに、あえてインプットとアウトプットの媒体を分離するという戦略が生まれる。ごく単純な具体例を挙げれば、「芝居を観て、作曲する」とか「写真を見て、文章を書く」などだ。

 インプットとアウトプットの媒体を別にする最大のメリットは、その希少性ゆえに、差別化ができることだ。そして、知らず知らずのうちに陥りがちな、" 閉鎖性" を打ち破ることができる。

 以前、効率的な学習法として、「耳から得た情報は書いて出力し、読んだ情報は口に出して出力する」という手法を紹介した。読んだ情報と耳から得た情報では、脳の中で情報処理をする場所が違うことは、既に確認されている。

 少なくとも、入力する媒体と出力する媒体を別にすることで、脳の中で好ましい化学反応が起きることは確かと思う。

 まずは、「ウェブで書くネタの情報源は、なるべくウェブ以外から得たものにする」くらいの配慮をすることくらいから、ちょっと心がけてみてはいかがだろうか。

山田宏哉記
 
 2010.6.28
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