ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2654)

 情報媒体としての映画と漫画/『カイジ』覚書

 映画『カイジ 人生逆転ゲーム』を鑑賞しました。

 小説や漫画の原作を実写として映画化すると、大抵、イマイチな出来に終わります。僕にしても、「原作より映画の方がよかった」と断言できるのは、押井守監督が手掛けた『スカイクロラ』くらいです。

 さて、『カイジ』です。映画というのは、原作を読んだ人と原作を読まない人では、見方が相当に違うものです。

 僕は、原作の愛読者ですが、これはこれで「あり」だと思いました。製作陣は、情報伝達媒体としての漫画と映画の違いをよく理解しています。

 漫画の表現をそのまま映画で再現しようとしても、あまり上手くいきません。原作の質感を引き継いだ上で(敢えて裏切る形で)、映画媒体ならでは表現をしていく必要があります。

 例えば、原作で多用される「…ざわ…ざわ」という擬音をどう表現するか(表現しないか)というのは、ひとつの腕の見せ所でしょう。

 登場人物、ゲームのルール、筋書を2時間という映画の枠におさめるために、概ね簡略化されています。

 それは当然で、原作を忠実に再現するなら、「限定ジャンケン」だけでも一本の映画には収まりきらないでしょう。しかも、ルールと戦略が複雑なので、おそらく映像ベースでは理解できない人の方が多数派だと思います。

 何を削り、何を残すのか。そして、どの順序で見せるのか。

 『カイジ』を見て感じたのは、その選択眼は間違っていないということです。そして、映画作品にする上での大胆な設定変更は、概ね奏功しています。

 ちなみに、『カイジ』で実写の方がよかった箇所がある。主人公の仲間たちが高層ビル間の「鉄骨」でから転落するシーンです。

 その際、転落死を笑いながら眺める「観客たち」が登場するのですが、これは実写版が秀逸でした。

 福本作品の描き方だと、よくも悪くも人間がデフォルメされるのですが、やはり本物の人間が、転落死する人間を「鑑賞」するのは、相当に衝撃的な光景となっています。

 以上のような理由で、『カイジ』は漫画と映画の媒体差を考える上で、格好の教材になり得ると思います。

 山田宏哉記
 
 2010.8.7
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