ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2655)

 "ノブレス・オブリージュ"の活用法

 誰にでも「自分だけが理不尽な目に合っている」と思う時はあるでしょう。

 逐一、列挙することはしませんが、僕自身、色々な場面で、損な役回りを引き受けているように思います。

 他人のミスの尻拭いをしたり、他人を庇って謝罪したり、責任を取ったりするのは、社会人であれば誰でも経験があると思います。"自己責任"と切って捨てられるのは、メディアの中に限られた話と言った方がいいでしょう。

 聖人じゃないので、そんな時は「何で俺が…」と思う。それはごく普通のことです。

 問題はその後です。あまり言われることはありませんが、被害妄想を表に出さないことは大人として、それなりに重要なマナーです。被害者面した人ほど、始末に負えないものはありません。

 ですので、最も重要なことは「そういえばこの前も…」とか「あいつは上手く立ち回っていて憎らしい」などと被害妄想が広がるのを防ぐことです。

 僕の場合、そんな時は「ノブレス・オブリージュ(優者の責務)」と呟くと、精神衛生上良いようです。

 優れた人間は、他の人間よりも重い責任を負っている。また、そのことに喜びを覚えものだ、と。

 考えようによっては、エリート意識丸出しの傲慢な発想ですが、これで被害者妄想を打ち消し、パフォーマンスが上がるのですから、やめるわけにはいきません。

 僕はいまや、"謙虚"や"遠慮"というのは、美徳とは言えないと考えています。消極性を正当化するための方便として悪用されてきました。

 「自分は未熟者なのでこんな仕事はできません」と責任を放棄する"謙虚な人"と、「私は自分の能力に自信があるので、絶対にこの仕事をやり抜きます」という"傲慢な人"がいたとします。さすがもう、前者を高く評価し、後者を「協調性がない」などと批判する時代ではありません。

 むしろ、「自分がこの社会を支えている」という自負さえあれば、多少のハードワークは何とかなるものです。事実か否かに関係なく、ビジネスパーソンなら「自分はビジネスの最前線で戦っている。我々がこの社会を支えている」という矜恃を持つべきだと僕は思います。

 公共問題を論じる時に、いかがわしい信念や思想を持ち出すのは問題があります。しかし、仕事のパフォーマンスが上がる信念であれば、それが客観的には間違っていることでも、信じてみる価値はあるのではないかと思います。

 日本的美徳から外れることではありますが、「自分は優秀な人間だ。だからこそ、多くの義務を負う」と思い定めることは、降りかかってくる不条理と戦う上で、有効な武器になり得るのではないかと思います。

 山田宏哉記
 
 2010.8.7
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