ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2658)

 2010年、浅間温泉で"人生のあり方"を考える

 今、長野県松本市の浅間温泉に来ています。

 陽が出ているうちに温泉街を散策しました。例によって、色々と発見がありました。

【写真1】いわゆる"温泉街"


【写真2】地元民御用達の共同浴場。以前は一般開放されていたようだ。



【写真3】公立学校共済組合の保養施設。公務員の「特権」の象徴。


 温泉街は、時代から取り残された感もあるレトロな雰囲気が漂っています。

 僕の好みを言うならば、「観光地、特に温泉街というのは、あまり近代化されるべきではない」と考えています。その意味で、赤間温泉のような街並みが結構、気に入りました。

 僕も、目の前の生活費を稼ぐ必要のない身分になれたら、こんな温泉街にこもって原稿を書きたいものです。

 一方で、時代を象徴する景観もありました。

【写真4】高齢者専用賃貸住宅


 それは、高齢者専用賃貸住宅の存在です。

 僕は、温泉地が高齢者の「終の住処」になっている事情を知りませんでした。もしかしたら、昔からそうだったのかもしれませんが、2010年の今、僕のアンテナに強く引っかかりました。

 温泉地に"老人ホーム"を作り、そこに老人たちが集まり、暮らし、人生を終える。このような人々の営みは、まんざら悪くないと思います。

 日本人は、薄々、自分の死期を感じるようになったら、温泉街に移り住むのがいいかもしれない。「人生最期の日々」を迎えるには、案外、温泉街は相応しい場所だと思います。

 なぜ、日本人はわざわざ伝統的な温泉地・温泉街に出かけるのか。公然と言われることはまずないが、それは"死を想起するため"ではないか、と僕は思う。

  レトロな温泉街は、どこか"死"を連想させる。

 一昔前の文学者が温泉宿にこもって原稿を執筆した核心的な理由も、たぶんここにある。

 単に温泉に入るためだけならば、最近では、首都圏でも地下深くが採掘されて、次々と温泉が噴出している。しかし、そこには"死の香り"がない。

 僕もときに、温泉街に行きたい。できれば、温泉宿にこもって原稿を書きたい。なぜか。やはり、伝統的な温泉街の隣には"死"があるからです。

 山田宏哉記
 
 2010.8.9
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