ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2661)

 自分本位の"歴史の学び方"

 学校教育的な価値観では、「歴史を学ぶことは重要」とされています。あるいは、ドイツの鉄血宰相ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉も残されています。

 しかし、このような言葉には重要な視点が抜け落ちていると思います。

 それは、「人は結局、自分が生きた時代の感触しか掴めない」という視点です。

 もちろん、知識として歴史的出来事を学ぶことができる。

 それでも、言葉にできない"空気"のようなものは、実際にその時代を生きた人にしかわからない。歴史を学ぶ時にまずもって必要なのは、この謙虚さではないかと思います。

 1981年生まれの僕の中に"歴史意識"が立ち上がったのは、1995年のことです。中学2年のときです。この年、阪神大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件がありました。

 もちろん、冷戦が終結して、「昭和」という時代が終わった1989年も重要な年です。

 僕の場合、それは「勉強」して「知識」として知ったことで、リアルな感触として記憶しているわけではありません。どこか、薄ぼんやりとしています。歴史とはそういうものです。

 加えて言うならば、青年時代に形成した基本的な世界観は、簡単には変えられないものです。「反共」「マルクス主義」「連合赤軍」「日教組」「左右の対立」といったタームで現代を語るのは明らかに的外れですが、いまだに青春時代の残滓を引きずる人は意外といます。

 だからこそ、特に歴史好きではない人のために、"歴史の学び方"を提言したい。

 まず、自分が生まれた年以降のことを学ぶ。次に、自分の親が生きた時代のことを学ぶ(自分が生まれた年−30年前まで)。そして、自分の祖父と祖母が生きた時代を学ぶ(自分が生まれた年−60年前まで)。

 実のところ、僕はその時代を生きた当事者が皆、この世を去ったら、その出来事は実質的に「時効」と考えるべきではないかと思います。その目安は、約120年。おおよそ4世代が回転することになります。

 それ以前のことは、あくまで「趣味」として学ぶ。僕自身、江戸時代以前の出来事は、それほど切実には受け止められません。

 「古墳がどうこう」とか「平安貴族の生活がどうこう」という話は、知的には興味深いものですが、僕たちの実生活とは関係が薄いものです。

 歴史の学習は、自分が生きた時代を優先的に学習し、直近の120年までとする。これならば、一定の切実さを持って歴史を学ぶことができると思います。

 山田宏哉記

 

 2010.8.12
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