ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2683)

 臓器提供拒否の倫理/"生死の線引き"に従わず

 「脳死者からの臓器提供」に関して、原理的にしておきたい話があります。

 まず、私は自分が脳死状態になったとしても、臓器提供をしません。

 いわゆる"脳死"の段階は、まだ「死のプロセス」の途中に過ぎないからです。人為的な生死の線引きには従いたくない。意識のあるなしに拘らず、僕は"自分の死"を全うしたいと思っています。

 「臓器は善意で提供するもの」とか「臓器を提供しない人は思いやりに欠ける冷血漢」いう建前は、人を深く傷つけるものです。

 脳死に関する議論で常に思うのは、人間もまた生物であり、動物であるということです。だから「脳死は人の死です。だから臓器を提供しましょう」などと言われても、本能的に納得できないと思います。

 それは「脳幹の機能が停止すれば、本人には意識もない」といった知識とは全く別次元の問題です。

 臓器提供をされたご家族の多くは黙して多くを語らないと聞きます。言いたくても言えないことがあるのだと思います。その内容は察しがつきます。残された側の多くが、本音では「臓器提供したことを後悔している」のだと思います。

 もちろん「臓器提供を後悔している」などという言葉は、当事者ならば口が裂けても言ってはならないことです。それは、臓器を提供されて助かった側の人間も、酷く傷つくことになるからです。

 しかし、だからこそ誰かが言う必要があります。

 人間にとって、自分の死であれ、身近な人の死であれ、「死を全うする」ことができないのは、やはり不幸なことなのです。

 脳死というのは、"臓器提供のために作られた概念"です。

 ですので、脳死による臓器提供を拒否する論拠としては「人為的な生死の線引きには従いたくない」で充分だと思います。「それでも臓器提供をするべき」などと言う医者は、もはや人間ではありません。

 生と死の間に明確に線引きをすることはできません。究極的には生きることそのものが、「死にゆく過程」に他ならないのです。


 山田宏哉記



 2010.9.4
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