ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2724)

 僕たちは"戦争をする理由"を失った

 インターネットの普及以降、「戦争をする理由」がなくなったと思います。

 もはや大国間で"正義のための戦争"をする必然性はありません。自分が軍隊に志願し、敵国の兵士を殺したいなどと思うこともないでしょう。

 まして、ニューヨークやロンドン、香港やシンガポールといった都市を爆撃して、一般市民を殺傷するのは、人道上、許されないと考えるべきでしょう。

 いつしか僕たちは「戦争を仕掛けて、皆殺しにしたい程に他国の国民を憎む」ということができなくなりました。極悪非道な独裁者に支配された国家であっても、その国民の大半は普通の人間なのだと知ってしまったからです。

 先の戦争の際、「鬼畜米英」などと言って憎悪を募らせることができたのは、結局は、情報不足で相手のことを知らなかったからです。知ってしまったら、本気で憎めない。

 世界中に友人がいたり、世界中でビジネスを手掛ける人が、積極的に戦争を望むということは考えられません。ウェブによって「世界中がつながっている」という感触もリアルにつかめるようになりました。

("地球市民"という言葉も、かつては市民運動を揶揄のための言葉でしたが、ウェブによってまんざら絵空事でもなくなりました。)

 その一方で、内心、戦争を望んでいる人は僕たちが考えている以上に多いものです。

 例えば、競争社会から脱落したミスフィッツ(不適応者)たちは、潜在的な戦争待望者だと言えます。

 赤木智弘氏の有名な論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(『論座』2007年1月号)は、戦争を望む"敗者"たちの心情を活写しています。

 事実、「生と死のギャンブル」によって、既存の秩序をシャッフルするという思想には悪魔的な魅力があります。僕自身、落ちぶれて路頭に迷い、二度と這い上がることができないと悟ったら、戦争を望むと思います。

 僕たちは未来が閉ざされたとき、戦争に"活路"を見出してしまう。為政者もまた、内政に失敗すると、戦争を起こして国民の目を反らすものです。これらは人類が何度も繰り返してきた過ちです。

 実際に戦争がなくなるかどうかはわからない。

 それでも、客観情勢としてはもはや戦争をする理由はない。戦争を正当化するだけの正義もない。

 インターネットの普及によって、人類はようやく「僕たちは"戦争をする理由"を失った」と言えるようになったのです。

山田宏哉記

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 2010.10.25 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ