ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2740)

 「エゴの騒ぎ」とどう向き合うか 

 「エゴが騒ぐ」ということがあります。程度の差はあれ、おそらく誰にでもあると思います。

 とかく若い男性は、生意気で、礼儀知らずで「俺が、俺が」と自己主張しがちです。社会常識に照らせば、それは非難に値するかもしれません。

 今にしてわかることですが、「エゴが騒ぐ」のは「卑小感に苛(さいな)まれる」ことの裏返しです。若者が生意気だったり、他人に攻撃的なのは、端的に言えば「まだ認められていないから」です。

 僕にもそういう時期があったと思います。「自分は世の中から正当に評価されていない」という不遇感は、容易に他人への攻撃性へと転化します。あるいは社会的に認められた人物への憎しみへと転化します。

 そして、成功者が失敗し、転落し、落ちぶれるを目の当たりにすれば、「それみたことか!」と痛快に感じます。マスメディアは潜在的にこの種のストーリーを求めているといってもいいでしょう。

 これは人間心理のダークサイドですが、しかし誰かが明言しておかなくてはなりません。

 いわゆる日本的サラリーマンが場末の酒場で愚痴をこぼすのも、不遇感あるいは卑小感からでしょう。表の場面では口にはできない上司や部下に対する不満、あるいは自分への評価の低さに対する不満は、たぶん誰にでもあるものです。

 それは仕方がない。この種の感情をなくすことはできません。

 だからこそ重要になるのは、自分の心理状態を把握しておくことでしょう。 普段から自分の言動をモニタリングして「単なる自分のエゴで発言していないか?」とか「虚栄心に基づいた言動でないか?」とチェックする姿勢が必要になるのです。

 無名の若者が有名人や著名人の悪口を言うのは、嫉妬に基づく場合が多いものです。別に悪口を言ってもいいのですが、それを「社会正義に基づく批判」なのだと信じていると、タチが悪くなります。

 やはりここは正直に「畜生、俺は全くの無名なのに、あいつだけ認められやがって。羨ましい。許せない!」と言うべきなのです。自分の心理状態をモニタリングするのは、簡単に言えばこういうことです。

 何も威張ったり、自慢したり、他人の悪口を言うのが悪いのではない。無自覚にエゴを垂れ流すことが問題なのです。

 僕にもかなり痛い記憶があります。

 大学時代、あるゼミである社会人が自慢話を披露して、その周りでゼミ生たちが熱心に聞き入っていることがありました。反面、僕の話を熱心に聞くような人はいませんでした。

 不遇感に満ちた僕には、その得意げな話があまりに不愉快で、不貞腐れて、後日、メールマガジンでその社会人を「ペテン師」と罵倒しました。しかも厄介なことに、それが「社会正義」だと思っていました。

 あまりに非常識な行動ですが、冷静に振り返れば、エゴが騒いで、嫉妬に駆られていました。自分には、能力や見識があるのに、それが認められていない。それが我慢できなかったように思います。

 今でも正直、「正当に評価されていない」という思いがないとは言いませんが、以前と比べれば随分とおさまりました。

 不思議なことに、自力で自分の生活費を稼ぐようになってからは、その種の「エゴの騒ぎ」や「不遇感」は消えていきました。「経済的な自立」には、この種の「不健全な精神」を抑える働きがあるようです。

 「エゴの騒ぎ」に対する"正しい対処法"があるのか、僕にはわかりません。ただ、経験を通して確実に言えることは、人生の一時期、そういう葛藤に苛まれることは、決して無駄ではないということです。

山田宏哉記

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 2010.11.6 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ