ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2746)

NHKスペシャル「862兆円 借金はこうして膨らんだ」覚書

  NHKスペシャル「862兆円 借金はこうして膨らんだ」(2010年11月7日放送)を視聴しました。

 旧大蔵省の内部文書である財政史口述資料(退官後に行われた聞き取り調査)を元に、「なぜ、日本の財政赤字が膨らんだのか」を検証している番組です。歴代の大蔵官僚たちが率直に自分の考えを述べています。  

 日本にとって、初めての借金のキッカケは、東京オリンピック後の不況で、税収が2,000億円不足したことだった。昭和40年度、その穴埋めとして初めて赤字国債が発行された。

 旧大蔵省の元事務次官だった谷村裕氏は「苦渋の選択だった」と証言している。「色々議論があってやりましたけど、率直に言って赤字国債はできれば出したくない。出したという前例も作りたくない。一遍、麻薬を飲んだけれども、これを癖にしないようにしよう、ということだった」

 列島改造を目指した田中角栄総理大臣(昭和47〜49年)。その後の日本に大きな影響を与える改革を行っている。「福祉元年」と呼ばれる大幅な福祉の拡充。

 田中角栄曰く「これからは社会保障の拡大は当たり前だ。社会保障の金は天から降ってこない。日本の経済を拡大していく以外に日本の社会保障は拡大できない。」

 角栄は「老人医療費の無料化」と物価上昇に合わせた「年金の増額」を実現した。社会保障の予算を3割増やした。「社会保障を充実させてほしい」という国民の声に応えた。

 松下康雄事務次官(昭和57〜59年)曰く「私がびっくりしたのは、今の制度を変えないでいると、毎年10%くらいずつ歳出が増えるという計算結果が出たんです。こんなに膨張する体質があったんじゃ大変だ」。

 元大蔵官僚藤井裕久氏曰く「やはり税収というのは、高度経済成長の調子で上がっていくという暗黙の気持ちがあったんでしょうね。当時は財源が足りなくなるということを考える雰囲気ではなかった。」

 右肩上がりの経済成長にブレーキをかけたオイルショック。社会保障に力を入れ始めたばかりの日本を直撃した。

 予想外の事態に、大蔵省は一変して予算を抑える措置に出る。列島改造の目玉だった公共事業費すら、伸び率をほぼゼロに抑えた。しかし、社会保障費の伸びは止まらず、毎年1兆円近く増えていった。

 藤井裕久氏曰く「社会保障というものは、一旦作ると、減らすということができないのです。公共投資であれば『もう、この程度でやめておけ』とかあり得ても、社会保障は仕組みですから。今の人から見れば、『そういうことも考えておくべきだった』ということですよね。」

 昭和50年(1975年)、2兆円の赤字国債の発行が決まった。一度限りだったはずの赤字国債の再発行。こうして日本は借金大国への扉を開けることになった。

 赤字発行の累積額は1975年に2.1兆円、76年に5.5兆円、52年に10.3兆円と急速に拡大する。

 証言録では借金依存への焦りが綴られていた。「こんなことを繰り返していけば、ますます慢性病患者になっちゃうから、この際、起死回生の策として思い切った景気対策をやろうと思いつめた時期だった」。

 こうして打ち出されたのが、借金による景気対策。高い経済成長を取り戻し、税収を増やせれば借金を減らせる。そのために敢えて巨額の借金をするという賭けにでた。

 福田赳夫総理大臣曰く「財政を中心にし、国家資金を総動員し、総力を挙げて景気回復に取り組む決意をしました」。福田の元で大蔵省が打ち出したのは、借金11兆円の大型予算だった。

 この予算を増やす責任者だったのが長岡實事務次官(昭和54〜55年)。曰く「一般公共工事34.5%増でとにかく史上最高額の予算となったわけです。大蔵省から各省に『予算をつけてやるから要求を持ってこい』といったのは、あながちウソではありません」。今では、「借金への躊躇いを感じながらも、予算を増やさなければならなかった」と振り返る。

 さらに長岡を悩ませたのは、国際社会からの要求だった。欧米は、戦後急成長を果たした日本こそ、低迷する世界経済を引っ張っていくべきだ、と主張した。4%の経済成長を7%に引き上げるように要求した。

 長岡は「人の台所のことを考えずに」と思う一方、日本が「経済大国」になっていることに気が付いた。

 長岡が相談した相手は大倉真隆主税局長(昭和50〜53年)。二人が考え出したのが「次の年の税収から、2兆円を先取りして予算に組み込む」という方法。

 大倉曰く「もう背に腹はかえられないから協力してくれということでありました。しかし、次の年度の予算編成は大変なことになる。大きな自然減収になることは目に見えている。」

 無理を重ねた結果、景気は上向くものの、経済成長は目標に届かなかった。税収は思ったほど伸びず、借金だけが増えていった。

 長岡曰く「日本の経済体質が"成熟型"になってしまっていた。財政で刺激しても、高度経済成長の時のような成長率は望むべくもない」

 大倉は増税によって借金を減らそうとしたが失敗した。大倉は大平総理に消費税の導入を持ちかけた。

 証言録の記録では「時間を頂いて大平さんにお目にかかり、『この先必要な仕事は消費税を入れるしかないと思う』と言った。ただ『今年、選挙がありますか』と言ったら『やるんだ』とのことでした」。

 1979年、大平総理曰く「どうしても必要とする歳出をまかなうに不足する財源は国民の理解を得て、新たな負担を求めることにせざるを得ない」。

 同年、大平は「消費税が必要だ」と正面から国民に訴えた。しかし、国民からの逆風は予想以上だった。大平は選挙に敗北した。こうして、消費税構想は潰れることになった。税を取る側の理屈と税を取られる側の感情の隔たりが浮き彫りになった。

 1989年、ようやく消費税が導入された。バブルの追い風により、税収が増え、平成元年には新規の赤字国債ゼロで乗り切れるようになった。しかし、平成6年、赤字国債の発行が再開される。

 証言録曰く「常に念頭にあったのは、政治とのかかわり合いでありました。二番目はやはりアメリカとの関係でございます。この2つが私たちに影響を与えた政策決定要因であったと考えております。」

 斎藤次郎事務次官(平成5〜7年)。赤字国債を出さないのが自分の使命と語っていたが、財政をさらに悪化させる要因が登場した。「クリントン政権が登場し、対日要求が一段とエスカレートしたのです。特に減税の要求はあからさまな要求であり、大変強いものでした。」

 アメリカは当時、巨額の貿易赤字に喘いでいた。日本に対して「もっとアメリカ製品を買うべきだ」と主張した。日本の消費拡大のため大規模減税を要求してきた。当時の細川総理に8兆円の減税を突き付けた。

 当時の大統領補佐ボウマン・カッター曰く「日米が良好な関係を続けていくために対日赤字の解消が不可欠でした。日本が円高の問題や財政赤字で苦しんでいることは知っていました。でも、率直に言うと、日本の財政赤字には関心はありませんでした。」

 斎藤は赤字国債を避けるためには「消費税しかない」と判断。「減税先行の場合、穴埋めとしての消費税増税は、論理的に考えて、当たり前のことではないか」。

 1994年、細川元総理により、消費税を廃止し、7%の国民福祉税を開始する構想が唐突に発表された。しかし、国民の反発が強く、一日で白紙撤回。その結果、減税だけが残った。これは、赤字国債の発行によって穴埋めされることになった。

 1997年、政治が財政立て直しに向かい出した。しかし同年、拓銀や山一証券の破綻。不良債権問題が火を噴き、財政再建が遠のく。金融危機を防げなかった大蔵省は急速に発言力を低下させていく。

 赤字国債を急激増やした1998年。1998年から2000年にかけて、借金は100兆円増えた。当時の田波耕治事務次官曰く「日本経済は、本当にそれほどの危機だったのか。ここまでやらないと立ち直れなかったのか。正直言って、よくわかりません」。

 なぜ歯止めがかからなかったのか。田波曰く「当時の経済の状況というものが、あまりに深刻であったため、このまま何も手を打たずに脱却できるとは考えていなかった。」

 1998年、小渕内閣が発足する。大蔵大臣の宮沢喜一は過去最大の景気対策を矢継ぎ早に打ち出していく。大蔵官僚は大型減税を懸念したが押し切られた。その後、連立政権の時代になり、各党の政策を取り入れるため、さらに予算が拡大した。

 武藤敏郎主計局長(平成11〜12年)曰く「自由党が社会保障の税方式、公明党は児童手当、自民党も介護保険を徹底的に見直せとか、新幹線問題も一生懸命やられて、財政支出拡大の方向に競い合うように走りました。」

 尾原榮夫主税局長(平成10〜13年)は証言録をこう結ぶ。「どうすればよかったのか。悪夢の如く、よみがえる時があります。」

 山田宏哉記

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 2010.11.8 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ