ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2769)

 情報の"政治的利用法"

 大学時代のテキストである高瀬淳一(著)『情報と政治』(新評論)に次のような一節があります。

 [引用開始]

 誰しも体験があるように、他人が知らないことを知っているというだけで、人間は優越感を抱くことがある。政府や企業に「秘」の印を押した文書が多いのは、それらによって一定のステイタスが実感できるからだとも言われている。(前掲書、P9)

 [引用終了]


 自分が情報を持っていて、その中から「Aさんにはこの情報、Bさんにはこの情報」と振り分けていくのは楽しいものです。但し、これは情報の非対称性を利用した立ち振る舞いである以上、倫理観が求められる局面でもあります。

 身も蓋もない言い方をすれば、「情報を持っている側は強い」。これは間違いありません。

 何せ、ある情報を相手に伝えるか、伝えないかの決定権がこちら側にあるからです。極端な話、自分に有利な情報なら伝えれば良いし、不利な情報なら言わなければ良いわけです。反面、情報を持たない人にはそのような選択権はありません。

 もちろん、学術論文を書くなら、自説に不利な情報にも言及する必要があるでしょう。しかし、ビジネスの現場では、敢えて自分に不利な情報を言う義務はありません(個人的には言った方が望ましいとは思いますが、それはまた別の話です)。

 情報の"政治的利用法"に関して、特にセンシティヴなケースを想定してみましょう。

 情報を持つ人が情報を配信するとする。その際、配信者は、A君のことが気に食わなかった。だから、A君以外の全員に情報を伝えることにした。そうするいと、A君は「自分にだけ情報が伝えられていない」ことにすら気付けない。

 例えば学校で「他のクラスメイトが全員知っているのに、自分だけが知らないこと」が沢山あったら、相当なストレスになることは間違いないでしょう。しかし、このケースで自分が暴行を受けたとか、差別的な発言をされたかと言えば、そんなことはありません。
 学校教師だって「イジメはありませんでした」と言うしかありません。

 つまり、特定の人を虐めるのに、最も悪賢い手法は「標的にだけ、情報を伝えない」というものなのです。これはイジメの証拠が残らないにもかかわらず、標的に確実に不利益を与える。しかも自分の手を汚しません。

 仮に発覚したとしても、「つい、うっかり」と過失の主張をすれば、それ以上は追及できないでしょう。

 イジメの世界では通常「何をされたか」が問題にされますが、「何をされなかったか」は問題にもなりません。

 僕自身、「情報格差型のイジメ」には、正直、実行性のある対策が思い浮かびません。
 何故なら「標的に対しては、何もしていないから」。実際、表面的には何もない。「それ故に問題なのだ」と提起することが必要だと思います。

 現代のイジメや差別、排除の主戦場は、徐々にこちらにシフトしてきているように感じます。「何を言われたか」ではなく、「何を言われなかったか」が重要になる世界です。

 そして今のところ、「各人の倫理観に期待する」以上の対策案が思い浮かばないのが正直なところです。


 山田宏哉記

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 2010.11.21 記事一覧へ戻る 文筆劇場・トップ