ジョン・スミスへの手紙
 サイバー・ラボ・ノート (2776)

 日本の思想、西洋の思想

 「日本の思想」と「西洋の思想」にはどのような違いがあるのか。リチャード・ニスベット(著)『木を見る西洋人 森を見る東洋人』(ダイヤモンド社)の記述を手掛かりに考えてみたいと思います。

 日本の思想と西洋の思想の違いは、まず端的に一人称に現れる。英語では一人称は常に"I"だが、日本語では性別や立場によって、「私」「僕」「俺」「ワシ」「オイラ」「吾輩」「拙者」「小生」…などと変化します。

 要するに"確固たる自己"を想定しておらず、"私"は柔軟に変化します。

 本書においても、「日本語には"I"を意味する言葉が数多くあり、聴き手や状況に応じて使い分けられる。(略) [一人称に「私」を用いるのは]状況に依存せずに使用できるという意味で"I"に最も近い」(P66)と記述されています。

 本書では、東洋人と西洋人の知覚の違いとして、以下のような点が挙げられています。

 [引用開始]

 注意と知覚のパターン…東洋人は環境に多くの注意を払い、西洋人は対象物に多くの注意を払う。東洋人は西洋人よりも、出来事の間の関係を見出そうとする傾向が強い。

 環境を思いどおりにできるか否かについての信念…西洋人は東洋人よりも強く、自分の思いどおりに環境を変えられると信じている。

 弁証法的アプローチの適用…明らかな矛盾に直面したとき、東洋人は「中庸」を求め、西洋人は一方の信念が他方よりも正しいことにこだわる。(本書P58〜59)

 [引用終了]


 いずれも、どこかで思い当たる節がある指摘です。

 日本(東洋)と西洋では、自然(環境)に対する捉え方も対照的だと言える。プロタゴラスは「人間は万物の尺度」と言いましたが、"お天道様"に豊作を祈願する農耕民族の感性には必ずしもフィットしません。

 また、本書によると中国語にも英語のindividualism(個人主義)に相当する語がなく、最も近いのは自分勝手を表す「利己」のようです。
 
 反面、"個人の自由"が発達したギリシアにおいては、"都市国家という特有の政治システム"が重要な意味を持っていました。なぜなら、「都市国家には民会があり、人々は合理的な議論の力でお互いを説得する必要に迫られていた」(P44)です。

 やはり、人間が思想を形成していく上で、自らが置かれた環境に影響と切り離して考えることはできないのではないでしょうか。 四季のある日本では八百万の神が生まれ、砂漠の地で一神教であるユダヤ教が生まれたのは示唆的だと言えます。

 以下、オフレコ発言です。

 さて、僕は一貫して、「神が人を創った」のではなく、「人が神を創った」のだと思っています。自分が死にゆく存在であることをどこかで誤魔化したかったり、民衆を統治するためには"超越的な権威"があった方がよかったり、色々な事情があって、僕たちは"神"のツ