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 プロフェッショナル仕事の流儀
 「社会起業家・渡邊智恵子」覚書

 プロフェッショナル仕事の流儀「社会起業家・渡邊智恵子」(2010年12月6日放送)を視聴しました。その覚書は以下の通りです。

 渡邊智恵子。東京千駄ヶ谷にあるアパレルメーカー・「アバンティ」の経営者。社員は30人ほど。年商7億円。

 20年前からオーガニックコットンを使った衣料品を手掛けており、渡邊はこの分野のパイオニアとしても知られている。

 途上国では、コットンの栽培に関しての農薬散布が環境汚染につながっている。

 渡邊は、農薬を用いないオーガニックコットンを手掛けることで、貧困、格差、環境汚染、児童労働などの社会問題の解決とビジネスの両立を目指している。

 尚、ビジネスを通して社会問題の解決をはかるモデルは"ソーシャルビジネス"と呼ばれる。バングラデシュのグラミン銀行(貧困層に小額の融資を無担保で行い、自立のキッカケとしてもらう)がその代表例としてよく挙げられる。

 オーガニックコットンを用いると、製品のコストは2割から5割高くなる。ビジネスを長く続けるために、渡邉さんは知恵を絞ってきた。そのため、アバンティの商品は、特に高品質が求められるベビー服や女性用の肌着などに注力してきた。

 「弱みは、"個性"になる」というのが渡邉の信念である。日本各地の繊維工場と連携することで、品質の高い高級品を可能にした。これには、苦境に立つ日本の繊維工場を助けるという意味もある。渡邉はあくまで「日本でのモノづくり」にこだわる。

 尚、渡邉の1日のスケジュールは、毎朝4時30分起きでメールの処理。同時に娘のために朝ご飯を作る。デスクワークは、日中職場ではやらない。その方が商談やミーティングに集中できる。そして、17〜19時に帰宅して、夕食の支度。とにかく多忙な毎日を送っている。

 渡邉は北海道出身。昭和45年上京。大学では商学部に進学し、在学中に結婚。

 卒業後は外資系メーカーの日本支社に入社。「どうせやるならトップになろう」と思ったが、次第に会社の姿勢に疑問を感じるようになる。「もっと人の役に立つ仕事がしたい」と思った。

 33歳の時、関連会社のトップに立った。空気清浄機などを手掛けたが、ほとんど売れなかった。その頃、離婚することになる。仕事や家庭に対する考え方の違いを埋められなかった。

 38歳の時、それまでの職を辞して、自分で会社を経営し始めた。友人に「オーガニックコットン」の仕事を紹介され、事業として手掛けることになった。

 娘は生後1ヶ月から保育園に預け、営業に駆け回った。経営が苦しいときは、自分の貯金を取り崩して社員の給料を払った。

 事業好転の転機となったのは、1年かけて開発した女性の生理用布ナプキンの評判が口コミで広がったことだった。

 今年9月、渡邉はカンボジアに出かけた。「地雷原の村」でオーガニックコットンを生産し、糸の段階まで現地で作るという話が持ち上がったからだ。うまくいけば、現地に雇用を生み出すことができる。

 但し、糸を紡ぐ技術が未熟で切れやすいというネックがあった。

 カンボジアにはいまだに多くの地雷が埋まっていて、死傷者が絶えない。それでも、日本のNPO法人「地雷原を綿畑に!」などの地道な活動により、地雷を取り除いて、オーガニックコットンを栽培する動きが広まりつつある。

 渡邉を出迎えたトーン夫妻は、2人とも地雷で片足を失った。他にもコットンから糸を紡ぐ作業をしている人たちは、地雷で手足を失っている場合等が多かった。

 トーン氏曰く「私たちが希望を持って暮らすチャンスを得たのは、日本の方々が援助してくれたおかげです」。

 「援助」という言葉に渡邉が反応した。渡邉は途上国で「援助する側、される側」という上下関係が生まれる様子をいくつも見てきた。援助されることに慣れた現地の人が意欲を失い、ビジネスの継続が難しくなったこともある。

 カンボジアの現実を目の当たりにした渡邉は、移動中、ひそかに涙を流していた。

 渡邉曰く「私は援助するという言葉が好きではないので、イーブンに価値を見いだせるような仕事をしたいと思います。一緒に仕事を作っていくということの方がよっぽどいいじゃないですか」

 渡邉を綿畑を案内し、苦しいながらも夢を語るトーン夫妻。ビジネスのパートナーとして、渡邉にはトーン夫妻に伝えたいことがあった。

 「同じ夢を、追いかけませんか」と。

 山田宏哉記

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 2010.12.9 記事一覧へ戻る 文筆劇場・ト